(後編)この人にきく特別編・落合陽一さん

落合陽一さんインタビュー

〈聞き手:しんめいPさん〉

『南御堂』新聞2026年1月号掲載

心の奥の方にある
❝誰かのため❞という気持ち

仕事や子育て、家族、そして自分自身の悩みなど。さまざまな心配事を抱える40代ですが、それを抱えながらも、どこかで「人の役に立ちたい」という思いがあるのではないかと思うのです。
先回のインタビューでも、これからの時代は即今―いまをそのまま味わう感覚が大事―というお話をされていましたが、社会貢献をはじめ、いわゆる自分以外の誰かのために動こうとする気持ち、ある種の菩薩行(※1)といいますか、そういうものを求める心があるのではないかと。

落合さん 確かに、人の役に立ちたいという思いはどこかで持っていますよね。
菩薩行…わくわくするような、エキサイティングな菩薩行なら良いのだが……。

エキサイティングとは?

予測不能性とか、偶然性とか。どんな出会いがあるかわからないということですね。
もう一つは相手との距離感も大事で。あまりに近すぎて“責任を背負う”感じになってしまうと、お互いしんどくなってしまう。

落合さんが交流のある坂口恭平さん(※2)は、「いのっちの電話」(個人で続けているいのちの相談電話)など、「生きづらさ」を抱える人に寄り添う活動をされています。それがヒントになるような気がして。

あの活動は、相手との距離感が絶妙なんですよ。不特定多数の人の人生相談はとても大変だと思いますが、あれくらい“遠い”ほうが、こちらも、相手も、むしろ安心して話せるのではないだろうか。

“遠いからこそ成立する寄り添い方”というか。民生委員さんみたいに深く入りこむ関係とは少し違った。

民生委員さんのように、地域の中で深く寄り添う仕事は本当に大切です。だからこそ、距離が近いぶん責任も重くなり、支える側の負担も大きくなることがある。続けるには覚悟も必要ですし、誰にでも務まる役割ではないと思います。
一方で、坂口さんの取り組みは、相談の重さそのものは同じでも、あえて“距離をとった関わり方”をしているところが特徴なのかなと。

坂口さんは、ご自身も鬱を経験されていて、同じ悩みの方の声を受けとめようとされています。しかし活動を見ていると、「背負わない」「抱えこまない」「即興的にその瞬間を生きる」という感覚があるように思います。

そこを本能的にやっている感じがしますよね。適度な距離で、人とも社会とも関わる。その軽やかさがすごくいい。

❝モノ❞を自分の
価値の証明にしない生き方

今の時代って、SNSなどで不特定多数の人と気軽につながることができますよね。
しかし一方で、“自分に合う情報だけ”が届くようになって、世界がどんどん狭くなってしまう感じもあります。現実が息苦しいほど、居心地のよい情報に閉じこもってしまう。いわゆるフィルターバブルといいますか。
そうなると、他者との距離が近すぎるというか、同じ価値観だけにしばられていくような感覚があります。

僕はそれを“貧者のバーチャルリアリティ”と呼んでいるんです。ここでいう貧者は「お金がない」という意味ではなく、「現実の選択肢が極端に少ない状態」のこと。
そうなると、人ってデジタルのほうに逃げやすくなる。アルゴリズムが最適化して、見たいものだけ見せてくれますから、そっちの世界のほうが楽になっちゃうんですよ。
その分、日常で出会う人との距離感が分からなくなる。本当はもう少し距離があったほうが、むしろ自然なんですけどね。

だからこそ「遠い関係での寄り添い」が意味を持つわけですね。

人間は本来“距離のある関係”のほうが自然なのかもしれません。
必要な時だけ関わって、不要になれば離れる。それって、自然界の動きと同じで。

こうした“距離の取り方”は、人間関係だけでなく、生活全体にも当てはまりそうですね。ただ、現代の「近すぎる関係」や「選択肢の少なさ」から距離を取るためには、そもそもの“生活のモード”そのものを変える必要があるのかもしれません。落合さんの新刊『マタギドライヴ』にも、そのヒントがあるように思います。
マタギ(猟師)の世界では、モノは所有せず、枝を拾って使い、不要になれば土に返す。自然と戦わず、状況に合わせて受け入れる。昨日も明日もない時間感覚で生きる――という特徴があります。

僕らはもともと狩猟採集民ですからね。遺伝子なんて、ここ数十万年ほとんど変わっていない。必要なときだけ山の恵みを借りて、役目を終えたら自然に返す、そういう生き方のほうが人間本来のモードに近いと思っていて。

都会で暮らす人たちは、どうしても成果主義に追われがちです。いわば資本主義的なプレッシャー。「きちんとした生活水準で、ちゃんと持つべきものを持って生きていないといけない」という空気。その重さが、日々のしんどさにつながっているように感じます。

実は僕は、そういうプレッシャーをあんまり感じたことがないんですよ…。地方で生活していると、“みんなと同じ基準で生きなきゃ”という空気そのものがないから。
筑波なんて学生が月2万円の家賃で暮らしている世界ですからね。現代の都市構造の中では感情労働も多いし、利潤が稼げるわけでもないし、いろんなものが重い。

結局、都市のプレッシャーは“持つこと”“積み上げること”を前提にした価値観とも結びついていますよね。デジタルネイチャーの進展や、今後のAI規制の動きの中で、従来の都市構造(成果主義や管理社会の空気)は弱まっていくのでしょうか。むしろ強化されてしまうようにも思えます。

もちろん強化されると思いますよ。むしろ、どんどん高度化するはずです。
ただ、その構造に“同調しなければいけない”と思うからしんどくなるのであって、「まあそういうものだよね」と諦めてしまえば、巻き込まれずに済むんです。
たとえば「良いカメラといえばライカ」みたいなハードウェアへの依存があって、私も使っていますが、最近はライカの撮影アプリがでたのでiPhoneで撮ることのほうが多いんです。高価な機材じゃなくても、いまはスマホで十分きれいに撮れますね。
Macも壊れたらアップルストアへ持っていけば3時間後には新しいのが手に入るし、僕のApple Watchなんてバンドがちぎれたところをテープで補強したまま使っています(笑)。
つまり、モノを“自分の価値の証明”にしないほうが圧倒的に楽だし、そのうちあらゆるものがソフトウェアになってしまう気もする。身の回りのものを“必要に応じて入れ替えられる道具”と考えられれば、家も車も洋服も、もっと軽やかに扱えるようになる。
こういう“所有の軽さ”って、さっきのマタギの話にもつながっていて。必要なときに使って、役目を終えたら手放す。それくらいでちょうどいいんです。

どうしても都市で暮らすと、「ちゃんとしたものを持っていないと」という意識が強いかもしれません。そんな価値観から離れるヒントってありますか?

“壊れにくくて代替性があれば何でもいい”と思いますよ。ブランド品も、みんなが欲しがるから欲しくなるだけで、そこまで大きな意味はない。

仏教でも、釈尊の時代の袈裟は糞掃衣からはじまりました。亡くなった方の衣をつぎはぎして作られた袈裟で、「もっとも価値のないもの」をあえて身につける発想です。

僕の null²(ヌルヌル)のユニフォーム(※パビリオンでスタッフが着ていた衣装)も、じつはそこから着想しています。現代で糞掃衣を表現するなら“デジタルの遺体”、つまり割れた液晶を象徴的に用いて、「価値から自由になる袈裟」をつくってみよう、と。

所有や価値づけから自由になる、衣の思想そのものですね。


【用語解説】

※1 【菩薩行】
菩薩は、悟りを求める心をおこし、自らの修行とすべてのいのちを救おうと生きる人をいう。菩薩行とは、そのため慈しみや忍耐、施しなどを重ね、成仏を目指して歩む生き方のこと。

※2 【坂口恭平さん】
1978年生まれ。作家・建築家・アーティストとして独自の視点で社会問題を発信し、「いのっちの電話」など、苦悩を抱える人の声に耳を傾ける活動でも知られる。