齋藤孝「私に届いた『歎異抄』」(後編)

 私の専門は、教育学です。30年以上教員養成を仕事にしてきたので、親鸞に対しても、つい教育者という観点から見てしまいます。

 「しんらんいちにんももたずそうろう」(『真宗聖典』770頁〈初版628〉)

 この言葉は、印象的です。共に歩む。共に学ぶ。教育としては、理想的な関係性です。

 「つくべきえんあればともない、はなるべきえんあれば、はなるる」(『同』)という言葉も、いい。無理がない。自己中心的でもない。私自身、ほぼ縁で人生が動いてきた感じがします。

 現代はSNSが発達して、お互いを評価、査定し合う、いわば「査定社会」になりつつあります。査定とは正反対の「縁の関係性」の大切さを思い出させてくれる言葉です。

 『歎異抄』の中で、私の好きな場面の一つは、若い門弟が「念仏してもおどり上がるような喜びが湧いてきませんし、早く浄土に行きたいという気持ちもおこってこないのです。どのように考えたらいいでしょうか」と親鸞に聞く場面です。

 門弟がこんなに率直に言えること自体が、関係性の良さを感じさせます。「そんなことでどうする!しっかりしろ!」などと言われたら、その後本心を打ち明ける気にはならないでしょう。

 親鸞は、「私もなぜ喜べないのかと思っていましたが、あなたも同じでしたか」と答えます。本心でしょうが、それにしても、まったく威圧感や説教くささのない、柔らかな応答です。

 このような柔らかさ、優しさは、時代を超えて普遍的です。ハラスメントが問題とされる現代において、この優しさは、いよいよお手本になります。

 また、次の問答も印象的です。簡略化するとこんな感じです。

「唯円房よ、私の言うことが聞けますか」

「もちろんです」

「まず千人殺してほしい、そうすれば往生がたしかなものとなる」

「できません」

「できないのは、心が善いからではなく、そうする業縁がないからです」

 問いかけ、答える。この対話のプロセスがあって、「なるほど」となります。

 「いいも悪いも、自分の心がいいから、悪いからではない。もっと大きな宿縁や業縁によるものだ」ということをわかるにしても、一方的に説かれるよりも、問答の方が、納得感があります。

 ソクラテスの問答法も思い起こされます。ソクラテスも問いかけを大切にしていました。

 大切なことは何度でも言うのも効果のあるやり方です。繰り返し聞くことで、相手の心に刻まれていきます。5回では入らなかった言葉も、20回、30回、100回と聞けば、刻まれます。

 「しょうにん(親鸞)のつねのおおせには」(『同』783頁〈初版640〉)、弥陀の本願は「ひとえにしんらんいちにんがためなりけり」(『同』)。

 繰り返すといっても、教えるというよりは、つねに自ら述懐し、つぶやく。

 本心がこぼれるように、言葉がこぼれる。それをそばにいる人が拾う。

 自分の内側を向いて、自分を見つめる者同士が、語り合う。共に歩み、語り合う関係性こそ、深い学びの道ですね。

【『南御堂』新聞2026.2月号掲載】