この人にきく特別編・落合陽一さん

落合陽一さんインタビュー

〈聞き手:しんめいPさん〉

『南御堂』新聞2025年12月号掲載

インタビューにあたって

落合陽一さんが提唱する「デジタルネイチャー」は、コンピュータやAIが特別なものではなく、空気や風景のように暮らしの中にとけ込む世界のこと。技術と自然、人ともの、アナログとデジタル―そのあいだの境目をゆるやかに溶かし、新しい“自然のあり方”を見つめ直そうとする世界観です。


しんめいPさんが、8年前にはじめて著作を通じて出会ったこの『デジタルネイチャー』。文学性・サイエンス性・アート性を引き込みながら、分野の境目をつくらず自然に行き来するように書かれている落合さんの文章。その一体感を読み取ったとき、仏教でいう“あらゆるものがさまたげなく通じ合う”という「無礙(むげ)」をふと感じたそうです。また、技術の世界で使われる“End to End”(最初から最後まで一気通貫) という言葉が、その感覚とどこか響き合うように感じられた、とも。


その出会いからしんめいさんは、進みつつあるデジタルネイチャーの時代に、どう応答するのか?を考え続けます。その一つのアンサーが自著『自分とか、ないから。』につながりました。


日常の小さな体験を入口に、東洋哲学的な感覚にも触れられるのではないか。南御堂新聞がこれから届けていきたい世代、特に40代が抱えるリアルな悩みについて、しんめいPさんが聞き手となり、落合さんに話を伺ってみました。

デジタルネイチャーとは?

手放したい。でも手放せない。
40代のリアルな不安

デジタルネイチャーの時代に、どう生きるか。僕自身の問いでもあります。

大阪・関西万博で落合さんがプロデュースしたパビリオンnull²(ヌルヌル)(※1)では、人間にとって「賢さはちょっとしたおまけ」というメッセージを発信し、多くの人が共感しました。僕も“賢さを手放さないと”と思ったんです。でも実際にはなかなか難しいです。

ぬるっと生きる、ということが大事だと思いますね。(ヌルヌル)――あれはいい名前ですよね。

落合陽一さんプロフィール

1987年東京都生まれ。メディアアーティストとして境界領域における物化や変換、質量への憧憬をモチーフに作品を展開。プロデューサーを務めた、大阪・関西万博シグネチャーパビリオン「null²」は大きな話題となった。著書に『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(㈱PLANETS/第二次惑星開発委員会)他多数。

そうなんです。ただ、手放せと言われても、やっぱり手放せない部分もあって…。特に40代にはさまざまな悩みがあり、例えば“子どもの進路や教育をどう考えるか”といったリアルな悩みもあります。落合さんは、そうした選択の場面をどう見ておられますか。

進路に限らずですが、“偏差値など数字の良し悪しだけ”で選ぶのは、あまり自分の物語につながらないと思うんです。何かを選ぶときに大事なのは、その場所や出来事と「自分がどんな関係を結べるか」。そこに縁や興味を感じられるかどうかではないでしょうか。

文脈に出会えるかどうか、ということですね。

そう。まわりに合わせて“よいと言われている学校”を選ぶのは自分の物語につながらない。自分との関係性、縁で考えると、進路や人生って、だいぶ楽になりますよ。

そうですよね。仏教で苦しみの原因とされる「渇愛(執着)」――他人と比べたり、自分の思いに囚われてしまう心。そこをどう扱うかが、やっぱり生きる上で大きなテーマになります。

しんめいPさんプロフィール

1988年大阪府生まれ。東京大学法学部卒業後、大手IT企業への就職や鹿児島県への移住、芸人としての活動などを経て無職に。著書に『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)。

意味を押しつけない。
「好き」という感覚が先でもいい

ところで、パビリオン「null²」には、どこか“他力的”(※2)なところを感じました。自分で操作するというより、作品のほうが包み込んでくるような感じです。本来、他力は、自己以外の仏・菩薩などの力をたのむことをいいますが。

なるほど、確かにあれは他力に近いところですね。null²に限らず、具体造形をつくるとそれ自体が他力的になっていく感じがします。モチーフは真言密教などから取ってこれるのですが、思想や舞台装置や彫刻とかは極めて他力的なんです。

例えば「民藝」。これは柳宗悦(やなぎ・むねよし)らが見いだした、暮らしの道具に宿る“用の美(ようのび)”を大切にする考えですね。特別なデザインや高価なものではなく、毎日使う器や道具の中にこそ、本当の美しさや心地よさがある。

僕は「テクノ民藝」というかたちで、デジタルネイチャーの世界の中であらためて「民藝を捉え直す」試みをしたことがあります。

大切なのは「まず体験できること」。“これはこういう意味だ”って押しつけない。むしろ、見る人の体験の中で形が決まっていくことですね。そうすると表面としては他力的なんですよ。

“これ、なんだろう”と考えるより先に、“あ、いいな”って思える。

そう。それでいいと思います。“まず、受け取っていい”ということ。

わからなくてもいいし、説明できなくてもいい。「好き」という感覚が先にあってもいいんです。そこが他力的というか、自分の理解をいったん脇に置ける状態だということです。

推し活は「執着」ではなく「即今」。
“いま”を楽しむ方法

デジタルネイチャーの時代を生きる中で、どうすればもっと楽しく――というか、もう少し“楽に”生きられるんでしょうか。

自分のまわりを見ていても、がんばりすぎて疲れてしまう人が多いように感じます。どうすれば“面白がる力”を育てられるでしょうか。

コツは「推し活(※3)」ですね。推しがいれば、世界が面白くなる。「いまここ」を楽しめる。

お茶でいう“即今(そっこん)”(※4)、つまり「いまをそのまま味わう」感覚に近いと思います。“これがないと生きられない”という執着ではなく、“いまが楽しいから推している”、そんな状態です。そのくらいの距離感でいるのがいちばん健全ですね。

執着が力に変わるというか、前向きになりますよね。

そう。“いまの楽しさ”が大事です。僕が関わる展覧会でも、40代くらいのファミリーが子どもと一緒に楽しんでいる姿をよく見ます。

「推し」を通じて親子の会話が生まれたり、日常の中にちょっとした“面白さのスイッチ”ができたり。

最近は動画生成ツールなどを使って、“推し”の短い物語を自分でつくることもできます。

最初はただ好きで見ているだけだった推し活も、だんだんとその作品や人の世界観がわかってきて、やがて自分でも何かを作ったり行動したくなったりする。受動的な生活から能動的な生活に変わっていく。そういう時間が増えると、生きる事そのものが少し軽くなると思いますね。

ただ、私たちはそうしたデジタルの楽しさだけですべてが満たされるかというと、そうではありません。やっぱり実際に人が集まって、身体で感じる場―“祭り”のような時間も必要です。

“祭り”というのは、どんなイメージでしょうか。例えば少し前に、映画『キングダム』で“大沢たかお祭り”という現象がSNSで話題になりました。大沢さんの写真をきっかけに、主婦の方々が子育てあるあるなどを投稿して盛り上がっていました。

ああいうネット上の盛り上がりもある意味で“祭り”といえます。

インターネットの上での祭りは、身体性というより、メッセージの流動性に頼ってる感じがしていて。やっぱり物理空間での祭りのほうがよいでしょう。

万博でも感じましたが、人が集まる場所には、オンラインでは味わえない“熱”がある。そういう祝祭の場を人間はどこかで求め続けるのだと思います。デジタルだけでは完結しない、そうした価値観は、デジタルネイチャーの時代にも残っていくでしょうね。〈続〉


【用語解説】

※1 【null(ヌル)】
プログラミング用語で「何もない」を意味する語。パビリオン名null²(ヌルヌル)は、仏教の「空」(即是色色即是)からきている。
※2 【他力】
浄土教での他力は、阿弥陀仏の本願により念仏して浄土に生まれる意で「他力本願」という。
※3 【推し活】
好きな人物や作品、キャラクターなどを応援する活動。
※4 【即今】
ただいま。いま。目下。禅のことばで「今この瞬間を生きる」考えとし、茶道でも用いられる。