釈徹宗「私に届いた『歎異抄』」(後編)
ー届く、導く、拡がる(下)ー

直接話を聞いた
著者唯円の思い
『歎異抄』の結語は大変興味深い内容になっている。
「信心一異の議論(法然上人と親鸞聖人の信心は同じか異なるか)」が臨場感あふれる筆致で書かれており、「聖教には真実と権仮がある(経典には真の教えと仮の教えとが混在している)」などといったことが説かれている。
中でも目を引くのは、「聖人の仰せ」という記述が二か所ある点だ。親鸞聖人に直接お話を聞いた者しか書くことができない文章がそこにある。
まず一つ目は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『真宗聖典』783頁〈初版640〉)というものだ。阿弥陀様のご本願は私一人のためにある、と親鸞聖人はつねづねおっしゃっていたというのである。
まるで阿弥陀仏の救いを独占しているような傲慢な発言だと捉える人もいるかもしれないが、「阿弥陀様はとんでもなく長期間にわたって思惟された。そんなに考え続けなければならないほど救い難い存在がいるからである。それは誰か。それこそが自分であった」、これが「親鸞一人がため」の内実だと解釈されている。
「私は、仏さまの救いからもっとも遠い人間なんだ」という強烈な実感が親鸞聖人にはあったわけである。ゆえに、そのような私をこそ救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏に対して、「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『同』)と続くのだ。
また、この発言は「なぜ阿弥陀仏は存在するのか」「それはこの私を救うためだ」という実存的応答だと受けとめることも可能であろう。数ある親鸞聖人の名言の中でもたいへん切れ味のある、深く考えさせられる一文であり、もし「歎異抄で一番心に残っている言葉は何か?」と問われれば、私はこれを挙げると思う。まさに宗教の本質そのものを表現しているような言葉ではないか。
虚構のただ中で
念仏だけが真と
そしてもう一つ「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(『同』784頁〈初版640〉)、私には善悪のどちらもわからない、という仰せが出てくる。もちろん、親鸞聖人は仏道を歩み続けた人なので、善とか悪とかという分別を保持されていたと思う。しかし、それが思うようにできない身なんだということも痛感されたのだろう。
落語に「しじみ売り」というネタがある。人情に篤い慈善家の男が、ある時良かれと思ってやった利他行為が、結果的に相手の人たちの苦しみを生み出すことになったと知る。たまたま憐れに思って助けようとするしじみ売り少年から、その事実を突きつけられるのである。私はこの落語を聞くたびに、結語の「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と、第四条にある「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」(『同』769頁〈初版628〉)を思い出す。
しかし、その虚構のただ中にあって「ただ念仏のみぞまことにておわします」(『同』784頁〈初版641〉)とするひと筋の道をひたすら歩まれた親鸞聖人。
もし『歎異抄』が書かれていなければ、このような親鸞聖人のリアルな姿を知ることはできなかったのである。
【『南御堂』新聞2025.7月号掲載】
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