齋藤孝「私に届いた『歎異抄』」(前編)

さいとう・たかし
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論。『身体感覚を取り戻す』(NHK出版)で新潮学芸賞受賞。『声に出して読みたい親鸞』(草思社)、『図解歎異抄―たよる まかせる おもいきる』(ウェッジ)など、著書多数。

 覚悟が定まると、すべてが変わって見えてきます。

 「今までなんであんなに悩んでいたんだろう?」とむしろ不思議になる。


「いずれのぎょうもおよびがたきなれば、とてもごくいちじょうすみかぞかし」(『真宗聖典』769頁〈初版627〉)

 
 これほどスッキリした覚悟の言葉はまれです。ムダな力みがないところがいい。

 自然にゆっくり落ちていき、底に着いて落ち着いた感じ。

 もともと地獄がすみか、と感得できたなら、こわいものはない。

 親鸞の言葉は、心持ちが大変な時に、じんわりしみてきます。

 私がそう感じたのは20代後半から30代はじめのことでした。日本を背負って立つという志を持ち、教育研究を続けた結果、33歳にして、無所属無職となりました。研究論文を読んでくれる人もほぼいない。

 そんな時、『歎異抄』のこの言葉が響きました。私自身は自力に自信を持つタイプでしたが、なにしろ現実はゼロ回答。

 親鸞の言葉が胸にしみ、「なるほど、研究を志した以上、こんなこともあるのか。この状態がむしろすみか・・・か」と思えました。

 底に着いてみれば、それはそれで覚悟が定まる。

 親鸞のように、自らを凡夫と思い定めることもなく、自信を持ち続けたまま、親鸞の境地に共感するのも妙なものですが、言葉が響いて腑に落ちたのだから仕方がありません。

 「たとい、ほうねんしょうにんにすかされまいらせて、ねんぶつしてごくにおちたりとも、さらにこうかいすべからずそうろう」(『同』)も気持ちのいい言葉です。この潔さ。

 恨みがましいことは、一切言わない。後悔しない、というスッキリした心持ちは、宮本武蔵の境地も想起させます。

 武蔵は最晩年の「どっこうどう」という覚え書きで、「我事において後悔せず」と書いています。何事にも後悔しない境地。我が事と読めば、自分のことでは後悔しないということ。

 親鸞と武蔵。まったく違うタイプに見えますが、迷いのなさ、思い定めた覚悟において通じるものがあるようにも思えます。

 覚悟が定まる時。そんな時を得たならば、この人生は素晴らしいものとなります。

 外的条件は関係ありません。いろんな条件が整ってようやく安心できるというのではなく、ふと訪れるのが覚悟の時。

 ある人との出会い、ある言葉との出会いが、その覚悟の時をもたらしてくれることもあるでしょう。

 閉じることなく、力むことなく、触発される開かれた構え。

 そんな、いわば積極的な受動性を、生きる構えとするのがおすすめです。

【『南御堂』新聞2026.1月号掲載】