生きていくために宗教は必要?
問 私の家はお寺さんに毎月お参りに来てもらっています。親から一緒にお参りしなさいとうるさく言われますが、何かと理由を付けてお参りしていません。私は信仰心が薄いのだと思っています。そのことで生活に困るわけでもないので、あまり気にしていません。そもそも私たちが生きていく為に宗教は必要なのでしょうか。 (32歳・女性)
答 小さなお子さんが、お参りしている私の顔とお内仏の中を交互にのぞき込んで「何してるの?」と尋ねられたことがあります。
お経には、お釈迦様は大切なことが見えない娑婆世界の中で、誰もが考えたことのないようなことを説かれた、と言われています。娑婆とは、強いものは勝ってバンザイ、弱ければ堪え忍ぶ世界という構図です。そういう一面があるということです。親が子どもによく言う「早くしなさい」「頑張りなさい」は、そんな娑婆という世界で少しでもいい成績を出し、いい仕事をして、少しでもいい生活を目指すものにするためです。結果、目の前のことに対処して、早くいい結果を出すことが大切なことになります。
ですから信仰もその延長上におかれます。お参りに行くと家内安全、商売繁盛、合格祈願、幸運祈願などが願われます。つまり自分の都合よくいくよう願うことが、また自分を高め視野を広げるよう学び行ずることが宗教のように思われています。
そういう意味では、娑婆世界で頑張れていると思っているうちは信仰する必要もないのでしょう。でもお母さんはそんなことで住職とお参りされているのでしょうか。
子どもたちのヒーロー、アンパンマンの歌詞に「何の為に生まれて/何をして生きるのか/答えられないなんて/そんなのは嫌だ!」という一節があります。人間として生まれてきているのに、何の為に生まれてきたのか、何が本当の喜びなのかといった、根本的なことが分からないまま過ごしていませんか、と問いかけているのでしょう。
そのことを清沢満之という先生は、「自己とは何ぞや。これ人生の根本問題なり」と言われています。娑婆では、自分のことに目が向かないのです。仏様にお参りするのも実は、私自身や、私の人生を訪ねているということなのです。
阿弥陀仏という仏さまは、不可思議光如来と言われています。「思議」とは我われの日ごろの思いや判断、行動のもとになるものです。「不可思議光」とは、日ごろ思いもつかないことを明らかにしてくださるはたらきです。私たちは、娑婆という世界にいて頑張らないといけませんが、上と前に集中するあまり横や後ろや足元が見えないのです。横にいて支えてくださっている人、見守り育てていただいた人、そもそもかけがえのない命をいただいているといったことなどに気づかせるはたらきこそが阿弥陀仏だということです。
「南無」阿弥陀仏。そんなことに全く気付いていませんでしたという頭の下がった驚きは、おかげさまとか、有難いとか、勿体ないとか、いのち尊しという心を育みます。
娑婆では、できるかできないかで評価されたりして、命の尊さ、輝きは見えません。仏のはたらきに遇ってこれが私だったと気づかされ、これが私ですと名乗って生きる世界が見つかったとき、私が私として輝くのです。
親鸞聖人は、阿弥陀様のはたらきに遇えば空しく過ぎるということはないと言われます。あなたもお母さんの呼びかけに応えて、人生とは何かといった根本的な課題をお参りすることをとおして訪ねていただければ有難いです。 (松山 正澄)
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