同じ墓に入るのが憂鬱で…
問 私は夫の仕事の都合上、夫の両親と遠く離れて暮らしています。両親とは年数回会う程度です。二人とも何を考えているのかよくわからないところがあり、出来るだけ会わないようにしてきました。先日義父が亡くなり、葬儀に出席しました。その時、私も死んだら同じ墓に入るのかと、今更ながら気づき、ゾッとしました。死んだらずっと一緒と考えると憂鬱でなりません。母に相談してみると、「嫁に行ったのだから」と取り合ってくれませんでした。どうしたらいいのでしょうか。(54歳・女性)
答 御義父さん、御義母さんと心が通じ合わないという話は、珍しい話ではありませんね。まして、日頃離れて暮らしておられるのならば有りがちなことかもしれません。
われわれ真宗大谷派のお墓で伝承されている形のひとつに、正面に「倶会一処」(くえいっしょ)と刻む風習があります。『仏説阿弥陀経』の中の言葉で、別れたくない人とも哀しみを越えて、また、憎しみあった者同士も、浄土においては生きている時の個々の感情を乗越えて皆が一つの場所に再会する、そんな意味になりましょう。私たちいのちあるものは、それぞれバラバラに生きているように思っていますが、仏教では本来、広大な、私の思慮及ぶことの出来ない一つのいのち=「無量寿」(むりょうじゅ)であると教えられます。
この季節、たまの晴れ間に新緑の樹木の美しさに目を奪われたり、名も無き草花に心が和んだりしたことは無いでしょうか。なぜ、私たちはそれらの光景に感動するのでしょう。植物は私たちに酸素を供給してくれており、その酸素をいただいた私たち動物は、それを二酸化炭素に替えてお返しします。そもそも、他のいのちと思っているものが私のいのちを成り立たせてくれています。元々何かが欠けては成り立たない、大きな一つのいのちなのです。そうした普段見過ごしているいのちの原風景に出会う時、無意識の懐かしさと共に「緑を美しい」「花を可愛い」と感動しているのです。残念ながら普段は、私たちの抱える煩悩が雲のごとくそれらを覆い隠してしまっています。
さて、あなたと関係のよくなかった御義父さんですが、生前そのことを「良」、としておられたでしょうか。心の奥底では、心通じ合う関係を望んでおられたのではないでしょうか。そして、あなた自身も儘ならぬ関係であったものの、本来なら相談事が出来たり、お世話をしたり、そんな関係が結べたら、そういった思いが心の奥底に無かったでしょうか。あなたがどんなに避けてこられても、「本当は出会いたい」という、いのちの欲求は、なりを潜めつつも存在し続けていたに違いないのです。
感情だけで言えば、現段階では義理のご両親と同じお墓に入ることを「ゾッとする」とまで表現されているのですから、別にお墓を立てることを決めれば済むことです。しかしその一方で、大切な何かをお感じになっているからこそ、お母さんにもご相談になり、今回のお尋ねになったと思うのです。御義父さんの死を通して尊い問いが誕生したのです。
いのちの不思議をたずねていく一歩を私たちと共に踏み出してみませんか。お手次のお寺や、この難波別院を会場とした仏法聴聞の場がたくさん開かれています。まずはこれらに足をお運びくださり、この問いをたずね続けてみてはいかがでしょう。お墓のことは、その歩みの中でゆっくりと考えられても遅くは無いのではないでしょうか。(宮部 渡)
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