阿弥陀如来様がなぜご本尊?
問 最近、よくお寺にお邪魔するようになりました。これまで、お寺に参ってこなかったので、これではいけないと思い、定年を機に、お寺の行事に色々参加するようにしています。お恥ずかしいことに、最近までお寺のご本尊はお釈迦様だと思っていました。真宗のお寺のご本尊は阿弥陀如来様だと聞きましたが、お釈迦様と阿弥陀如来様にはどういう違いがあるのですか?仏教はお釈迦様の教えなのに、どうして阿弥陀如来様を祀るのでしょうか。 (65歳・男性)
答 正直に言うと、お寺に生まれながら、私もずいぶん大きくなるまで本堂にお釈迦様がお見えにならないことを知りませんでした。
父親に聞いたら「本堂ではお経を読むだろ」とだけ答えられ、狐に包まれたような覚えがあります。でも今なら、頷くことができます。お釈迦様は教えを説かれた人だからです。
お釈迦様は、今から二五〇〇年ほど昔、初めて人間として仏陀(仏様)となられました。そして、人々を救うために教えを説かれました。つまり、真実の世界を言葉にして私たちに開かれた方と言えます。
一方、阿弥陀如来は、お釈迦様が人間として初めて気がつかれた、私たちを救う真実の「はたらき」そのものです。ですから人間でないどころか本来は色も形もありません。
しかし、それでは私たちが理解できないので、お釈迦様はその「はたらき」を、真如(真実)の世界から来てくださった如来様、阿弥陀如来として説かれるのです。
では、数ある仏様の中で、なぜ私たちの御本尊は阿弥陀如来なのでしょうか。
親鸞聖人は「正信偈」の中で私たちの有様を「五濁悪時の群生海」と呼ばれます。つまり、汚れにまみれた私たちは雑草のように群れになって生きていると言い当てられるのです。
雑草(と呼ばれる草)の芽が出る場所は風まかせです。光も水もお天気次第、日照りが来るやら豪雨が来るやら。そして隣は競争相手です。光を求めて誰よりも、高く広く葉を広げ、水を求めて誰よりも、深く広く根を張ります。そんな熾烈な競争に勝った者だけが、私たちの目に触れるのです。
私たちはどうでしょう。気がつくと人として生まれ、どんなにすましていても、一皮むけば「私が」と我を張って、勝つか負けるか損か得か、そんな物差しに振り回されて敗けることに怯えてはいないでしょうか。
こんな私たちのためにお釈迦様は阿弥陀如来の教えを説かれたのです。
阿弥陀というお名前は、ア・ミタの音を漢字に訳したものです。意味を訳せば「無量」です。量が問題にならない仏様です。言い換えれば、決して私を物差しで計ったりせず、私がどんな状態にあっても必ず手を差し伸べてくださる仏様です。
そして、阿弥陀如来は、そのお名前で、私がいつも気にしている物差しこそが私を苦しめていると教えてくださるのです。そもそも、草の一本に至るまで、それぞれが他と比較する必要が無い、尊い「いのち」を賜っていると教えてくださるのです。
草はたとえ大きく育たなくても、それぞれが与えられた命を精一杯生きています。そこに私たちが勝手に物差しをあてて一喜一憂しているのでしょう。
とはいえ、私たちはこの物差しを手放すことができません。そこで、阿弥陀如来は、「常に私の名前を呼んでくれ」とおっしゃいます。お念仏申す時、私はいつも阿弥陀如来の掌の中にあるのです。
ですから、本堂の正面には阿弥陀如来が安置され、その前でお経を読むのです。私たちは阿弥陀如来の前で、お釈迦様のお話を聞いている形となるのです。
(山雄 竜麿)
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