人生における失敗というのはないんだと思います ~まど・みちお~
2025年5月 掲示板の言葉
「もうダメだ…」そう思ったこと、ありませんか?そして意外となんとかなった経験も、ありませんか?まどみちおさんは「失敗を認めた時点で、それはもう失敗じゃない」と教えてくれました。阿弥陀様も、人の可能性を信じて待ち続けておられます。人生は想像以上に広くて深く、そして未知なる可能性を秘めています。人生に失敗なんて、ないんです。
2025年5月 掲示板の言葉
「もうダメだ…」そう思ったこと、ありませんか?そして意外となんとかなった経験も、ありませんか?まどみちおさんは「失敗を認めた時点で、それはもう失敗じゃない」と教えてくれました。阿弥陀様も、人の可能性を信じて待ち続けておられます。人生は想像以上に広くて深く、そして未知なる可能性を秘めています。人生に失敗なんて、ないんです。
2025年4月掲示板の言葉
かつて高史明氏のもとに「死にたい」と訴える子どもが訪れたという。たいていの人ならおそらくは「やめておけ」「家族が悲しむ」などと答えるかもしれない。
だが、高氏は逆に「死にたいのはどこか」と問いかける。そして、「ここか」と頭を指さした。言われた子どもは当たり前じゃないかと、キョトンとしている。高氏は、それは頭の知恵が描いた思いにすぎない。文句一つ言わず、君を支えてきた手や足の裏に、許しを得るべきだと説き、「手や足の裏の知恵が聞こえなければ、聞こえるまで歩きなさい、それが人生というものだ」と諭した。
私の全存在を支える「ちえ」に気づきたい。
2025年3月掲示板の言葉
母が病気で亡くなった。それまで当たり前のようにいた人がいなくなり、失ってはじめて、母の願いや思いに応えられなかったことの多さに気がついた。
さて、私自身も親となり、子に思うことがたくさんある。しかし思えば思うほど、「ああしてほしい、こうなってほしい」と、いつしか希望が願望に、そして願望が欲望に変わってきてしまっている。
母の願いは、叶うか叶わないかに関わらず、常に私にかけられている“祈り”となって私に届けられる。願いをかけられてきたこの身であることを、母はいまも教えてくれている。
2025年2月掲示板の言葉
書店に行くとよく自己啓発の本を見かける。タイトルを目にすると、自身も心身を鍛え、もっと能力を伸ばさなければいけないと思ったりする。
しかし、いろいろとやってみるも、そう上手くはいかない。悪戦苦闘し、思うようにいかずイラつき、こんなはずではなかったと落ち込んでしまうことがしばしばだ。
そんな私に、マザー・テレサはこの言葉を通し、「〝誰か”になろうとしていないか、そんな必要はない」と、「何者」かになろうとしている私の在り方を気づかせてくれる。出来ることも出来ないことも全て「私」であるとうなづけるところに、新たに歩み出す力を、この言葉からいただいている。
2025年1月掲示板の言葉
ちょうど一年前の元日、故郷である能登半島を大地震が襲った。大晦日までは他人事であった災害が我が身に降りかかり、明日のありさまさえ想像できない絶望の淵で、標語の言葉を拠りどころに日々を重ねてきた。
「これまで(過去)が、これから(未来)を決める」と言う方がしっくりとくるかもしれない。しかし藤代師は、「これからが、これまでを決める」と言い表された。
華々しい未来が約束されている訳でも、苦々しい過去が清算される訳でもないだろう。しかしこれからの生き方を通して、自らが歩んできた人生の見え方が転じられるよう、精進するばかりである。
2024年12月掲示板の言葉
私はよく人を疑う。先日、窓ガラスにひび割れを見つけた時もそうだった。誰かが何かをぶつけたのだと飼い猫までを疑う始末である。しかし、よくよく思い返すと、草刈機の飛び石が何よりも疑わしく、どうやら私が犯人だったらしい。それでも、なかなか過ちを認められない。
釈尊は「他人の過失は、もみ殻のように細部まで暴き、非難し、世間に知らせようとする」と、人のありさまを言い当てている。
人を疑うなら、その何倍も自らを省みるべきだろうが、実際はその逆である。どこまでも自身を正当化し、非を認めず、他に転嫁しようとする私の姿を知らされ、ただただ頭がさがるばかりである。
2024年11月掲示板の言葉
仕事で失敗した。簡単な仕事だと楽観し、期日に間に合わなかったのだ。同僚に心配をかけ、情けないやら悔しいやら…しばらく夜も眠れなかった。
家族に打ち明けると、「これからどうすればいいか、わかってよかったんじゃない?」と応えてくれた。何故だかわからないけれど、ふと「あたたかさ」を感じた。同じように失敗して思い悩んだ経験があるからこそ、そんな言葉をかけてくれたのではないだろうか。
失敗しないに越したことはないが、失敗しないとわからないことも沢山ある。そして、そこで感じた悔しさ、悲しみ、怒り、たくさん悩んだそのことが、人に寄り添うことをうながすのではないか。
2024年10月掲示板の言葉
長年使用していた我が家の冷蔵庫が、とうとう寿命を迎えた。連日の猛暑の中、傷みやすい中身をどう消費するか、代替品をどうするかといった「トラブル」としての側面ばかりに苦労した。
しかし、新製品の購入を検討している時、“これを機に家庭のエネルギー消費を見直そう”とか、“冷蔵庫の中身は計画的に購入しよう”と家族から声が挙がった。平素、冷蔵庫の便利さを「当たり前」にして、食品や省エネに対する意識がおざなりになっていたことに思い至ったのである。
一見、自分を煩わす出来事が実は、生き方を見直す貴重な機会なのかもしれない。それは人生においても、同じことが言えるのではないだろうか。
2024年9月掲示板の言葉
父の死後、生前の手紙を親しい方から見せてもらった。そこには、「仏様から“がん”という病気をいただいた。ありがたいことだ」と綴られていた。闘病中、次第にできることが少なくなり、住職として、人として、苦悩している姿しか知らなかった私だが、思わぬ形で父の本心に触れた気がした。
晩年、老・病・死という、自分では解決できない現実に直面した父。ただ、周りの人によって助けられ、支えられしているうち、“生かされていた”事実に思い至ったのではないか。
何事も自己中心的に捉え、思いどおりに生きようとする私に、父の言葉は、「それでいいのか」と呼びかけてくれているようだ。
2024年8月
「自分のことは自分が一番わかっている」と誰もが考えている。小さい子どもでもそうだ。小学生と中学生の我が子は、問題が起こると自分が何とか傷つかないよう責任を転嫁し、他人のせいにするのが得意技のようである。注意しても聞く耳を持ってくれないのは、前述の思いがあるからだろう。
さて、かくいう私はどうだろうか。大人になれば変わっているかというと、そうでもない。むしろ、自分自身を見直しているつもりになって、さらに言い訳がましくなっている。
お釈迦さまは、私たちに「自らを知りなさい」と教える。教えに照らされ、見えていない私、知っているつもりの私が、仏さまから知らされる。