今日という日は 残りの人生の 最初の日である ~チャールズ・ディードリッヒ ~

2023年12月分
薬物中毒患者救済機関“シナノン”の設立者、チャールズ・ディードリッヒの言葉である。
終わりはいつくるかはわからない。人生という旅路は一日一日が初事。昨日の私に帰ることはできないし、明日の私を今、生きることはできない。たった一度きりの人生だからこそ尊い。
そう思ってはいるものの、夜、眠りにつく時「明日の朝、いつものように目が覚めて一日がはじまる」と、何の確証もなく思いこんでいる私。その眠りが人生最後の眠りとなるかもしれないのに。
当たり前が当たり前ではなかったことに気付かされた時、私の人生における“今日”という日は何よりも特別な日に変わることだろう。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
生のみが我等にあらず 死も亦我等なり ~清沢 満之~

2023年11月分
初めて人の死に直面したのは小学生の時。実の母であった。本堂に響き渡る読経、涙を堪える父の横顔、そんな通夜葬儀の風景は今も鮮明に残っている。
「人は死を感じた時、優しくなれる」。そんなことを聞いたことがある。晩年、厳しかった母が妙に私のことを心配したのは、死を間近に感じていたからであろうか。そして、穏やかに過ごした余生は自分の生を見つめ返した時間であったように思える。
清沢師の言葉は、「生死一如」である我が身の事実を教えてくれる。母は、死という不安に苛まれる自分の姿が見えたからこそ、今を生きる大切さを感じたのではないか。「一生懸命生きや!」。そんなふうに、今、母から呼びかけられている気がする。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
人生から返ってくるのは いつかあなたが投げた球 ~斎藤 茂太~

2023年10月分
母が介護施設に入ることとなった。色々と身の回りのものを買い揃えようとしたら、わずかな日用品だけでいい、と言われた。若い頃はといえばあれやこれやと買い揃える日々だったが、そこから母のように少しずつ手放してゆくのが、私たちの人生なのかもしれない。
しかしかつて、母が庭のツルを指差し「あれは鶴首南京だね」と語ったことも思い出した。調理で廃棄した種が、力強く芽吹いたのだ。それが不要な物とばかり思っていた私は、そのとき何か大切なことを見失っていたと感じた。
人生で何を手放し、何が残るのか。親鸞聖人はそれを「簡ぶ」と仰った。母の簡びを見守りたい。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
一日は 貴い一生である ~内村 鑑三~

2023年9月分
朝起きて仕事に行き、帰ってきたら家のことをし、少し休憩しようと携帯を見始め、気が付くともう寝る時間…。一日中何かに追われている気がするのに、終わってみれば何も残っていない。時間泥棒がいるのではないかと思うほど一日があっという間に過ぎて行き、はたしてこれでよいのだろうかと焦りを覚える。
この言葉の後には「これを空費してはならない」と続く。今日の私は誰と出会い、何を話し、何を聞いたのか。一生の中のたかが一日ではなく、大切な一日を過ごした繰り返しが一生なのだろう。
慌ただしい日々の中、ほんの少しでも自分自身の心に、何かを留める一日を過ごしていきたい。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
雨を感じられる人間もいるし ただ濡れるだけの人もいる ~ボブ・マーリー~

2023年7月分
雨の日は憂鬱に感じる。同感だという人も多い。しかし先日、散歩中にふと美しい景色に出遇った。雨の音が優雅に響き、水滴が花や葉に優しく触れる様子に「雨もわるくないものだ」と感動した。
思えば、私はいつから雨天は悪く、晴天が良いと思うようになったのだろう。忙しさを優先し、効率よく活動できる晴天に魅力を感じてきたせいだろうか。むしろ、足止めをされることの多い雨の日には、静かに周囲を見渡し、日頃の心を見つめなおすチャンスが潜んでいるかもしれない。
「ただ濡れる」だけではない、雨の持つ美しさや静寂さに自らの感覚を研ぎ澄ませ、喜びと感動を求めたいものだ。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
人が何よりも 執着せんとするものが 自己である ~毎田 周一~

2023年7月分
先日、妻と子どものことで言い合いになった。ふと横にいる子の顔を見ると、とても悲しそうな顔をしている。ハッとした。「子どもの為に」と言いながら言い分を通そうとする身勝手な自分の姿に気がついたからだ。「〇〇の為」という聞こえの良い言葉に酔いしれる自分に気づけずにいたのだ。
日々精一杯生きているつもりでも、その内実は思い通りにしたい自分都合ばかりではないか。そして理想を求めるが故に自己に執着し、叶わないと悩み苦しんでいる私である。しかしそれは自分の執着がもたらしたものにすぎない。子の悲しみは、そのままこの身の、悲しみでもあった。今一度、自分のありさまを確認しつつ日々を歩みたい。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
失敗することを恐れるよりも 真剣でないことを恐れたい ~松下 幸之助~

2023年6月分
誰しも多かれ少なかれ壁にぶつかり、そのことに向き合いながら生きていく。過ぎてしまえばその経験が自分の糧になったと納得できるかもしれないが、困難を目の前にしてそんな余裕は毛頭ない。
職場や学校などで、他人との比較や社会的価値観に振り回されながらも、考えを巡らし乗り越えようとする。そして、受け入れ難い現実に目を背けたくなることもある。
失敗のない人間などいない。ただ、逃げることと退くことは違う。常に真剣に向きあうことは難しいが、そこから見えてくるモノがあるのではないか。物事の本質を少しずつでも感じることのできる向き合い方を、今一度この言葉から学びたい。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
人生で最も重要な二つの日は 生まれた日と その理由を見いだした日だ ~マーク・トウェイン~

2023年5月分
一歳になる子どもが、「まんま」「いやいや」と意思表示をはじめた。そのうち言葉を覚えれば“質問期”が訪れるというが、近い将来「私はなぜ生まれてきたの?」と尋ねられることもあるのだろうか。
子の誕生は嬉しい出来事であったが、同時に、先の見えない時代を生きていく我が子の将来を憂う気持ちもある。あらゆる所で争いと分断を繰り返す私たちの生き方に、戸惑い、思い悩む日も来るだろう。
「なぜ生まれてきたのか」に対する明確な答えを持ち合わせてはいないが、社会に見放されても、人生に行き詰まっても、決して見捨てない存在があるということが、「南無阿弥陀仏」のメッセージであるということを伝えていきたい。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
ただ いてくれるだけで 嬉しいのだ ~東 義方~

2023年4月分
故・東義方氏(青森県・蓮得寺)の「存在の重み」という詩の一節である。この詩には、念仏の教えを聞くと“なんにも役にたたぬとなげいているとしても”、“ただいてくれるだけでたのもしい”ともある。
宗教は、さまざまなご利益を説く。商売繁盛・無病息災・家内安全…。だがこの詩では念仏の救いを、一人ひとり、かけがえのない存在の重みが開かれることだと教えてくれている。
念仏は、いつでも・どこでも・誰でも触れることができる。そしてその教えを聞くと、互いの存在を認め合える世界が開かれてくる。それこそが、この苦しみ多き社会を共に生きぬく、温かな原動力となるのだろう。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)
人の世にいのちのぬくもりあれ 人間にいのちの輝きあれ ~藤元 正樹~

2023年3月分
奈良県御所市の水平社博物館を訪ねた。藤元師のこの言葉は「人の世に熱あれ 人間に光あれ」とくくられる水平社宣言を元にしている。
さて、世の中には「同調圧力」という見えない圧力がある。かつて私自身、この圧力に悩まされた時期もあった。自分らしく、あなたらしく生きることが大切と先人に教えられたものの、自分を超える大きな力が作用するとき、果たして本当に私らしく生き、他者を尊重することができるだろうか。
博物館には「もっと暖かい人の世を」ともある。〝私〟と〝あなた〟は、同じである必要はない。それぞれの個を認め合うところにぬくもりが生じ、そこにいのちの輝きが生まれるのではないか。
※今月の「掲示板の言葉」のダウンロードはこちらから。(縦・横)