自分のあり方に 痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる〜 宮城 顗 〜
2017年3月の言葉
部屋に置いてあるテーブルの足に指先をぶつけたときの痛さは、涙が出るほど痛いもので、置いたのは誰だと怒っている。だが、家族の誰かがぶつけた時は、「注意したら」程度に済ませてしまう。本当に自分勝手である。
医師で作家でもある鎌田實さんは、「医療には優しさがなければならない。そして、その優しさとは、他者への想像力そのものだ」と言われた。
これは、医療にだけ言えることではなく、この世のすべてに言えると感じる。身勝手さは、人間の本性であろう。しかし、そのことに痛みを感じられた時、他者の痛みが自ずと想像でき、ともに生かされているという心が開かれてくる。 (い)
折れてみて 初めて 見えた 鬼の角〜 浅田正作 〜
2017年2月の言葉
福井の民話に「吉崎の嫁脅し」という話がある。
ある家に熱心に吉崎御坊(お寺)へ通う嫁がいた。
それを快く思わない姑が、聞法をやめさせようと、その帰り道に鬼の面をかぶって嫁を脅すのだが、どうしたことか鬼の面が取れなくなってしまった。
嫁と姑は二人で吉崎に出かけ、阿弥陀様に手を合わせると面がはずれ、以後一緒に聞法に励んだそうである。
聞法する時間があるならその分働いて稼げという姑の思い。効率よく、成果を上げることばかり求める現代人の考えと同じである。私達も姑と同じである。
仏智に照らされ、鬼のような私であったと知らされ、愚かな私であったと深く自覚するところに人生の確かな歩みが始まるのではないだろうか。(み)
正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし〜 一休禅師 〜
2017年1月のことば
この言葉は一休禅師が正月に頭蓋骨を持ち街中を歩いた逸話にある。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから家族や友人と祝った。
しかし一休禅師は、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無常をあえて正月に説いたのである。
無常を知ることは命のはかなさを知ること。そして日々を大切に生きる者になる。
しかしそれだけではない。
私の命は私では量り知れないほど多くの命に育まれ今在るのである。また想像できない多くの命を同時支え育んでいる。この尊い命を私は今生きているのである。
このいのちを「無量壽」と言い、無量壽のいのちに目覚めて生きることを仏さまは勧めた。
それがお念仏の教え、帰命無量壽覚である。