昼のお星はめにみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ~金子みすず~
2017年7月掲示板の言葉
現代は科学が発展し、様々なことが立証されてきた。もはや現代人は、目に見えるものでしか、信じられなくなったのかも知れない。
しかし私たちは、目に見えないものによって支えられ、存在していることは言うまでもない。自分の思い(自我)に縛られて、そのことになかなか目がむかないでいる。
星は、太陽の光や雲によって遮られることがあるが、そこに確実に存在し光輝き続けている。目に見えないが確かにあるものに、思いを巡らせることが大切なことではないだろうか。そこに、私を成り立たせる根本的な“いのち”との出遇いがあるはずだ。
今日一日の実行こそが 人生のすべてです ~平沢 興~
2017年6月の言葉
私は今日、どの様な一日を過ごしたのだろう。今日を振り返り「いい一日だった」と本当に心から歓べるのだろうか。身勝手な未来予想に耽ることと、予想通りにならない事への愚痴に埋め尽くされ、私の今日という「今」は瞬く間に「過去」となる。この過去からは「虚しい今」しか生まれてはこない。自らが積み上げてきた過去を見直すことなしに、今日を満足に終えていくことはできないのであろう。
今私が行うことが必ず「私たちの未来」に作用すると思えるならば、自然とその行いはより丁寧にそして大切なものとなってくるはずだ。今日の生き方が私たちの人生すべてを決定づける。今という責任を生きる厳しさがこの言葉から問われてくる。
聴けば聴くほど おまかせ以外 仕方のない私がわかってくる〜 鈴木章子 〜
2017年5月の言葉
浄土真宗では、聴聞という言葉を大切にしている。言葉の成り立ちを辞典に引くと、「聴」くとは一生懸命にききいることのようで、「聞」くとは無意識にきこえてくることのようである。
さて自分は、どういうききかたをしているのだろうか。家や外では、自分に都合の悪いことは、きかないふりをしている。しかし、自分への悪口などは、耳をそばだててきいている。その時その時、自分の都合にあわせてきいている。
仏の教えにきくとは、身の事実をきくのである。仏法をきいて、賢くなるのでない。どうしてみようもない自分に気づかせていただくのである。おまかせしていくしかない自分に出会うのである。
人間とは 他と自分を比較しないと 幸福も不幸もわからない まことに厄介な生き物です〜 平野恵子 〜
2017年4月の言葉
私たちは、自分の正しさによって作った「ものさし」によって、損か得か、勝った負けたと、あらゆるものをはかっている。「あの人よりは幸せ」「あの人よりは駄目だ」と、知らず知らずのうちに他と比べてみては、自分の優劣を自分でつけてしまう。そのような比較から、優越感にひたっては幸福と感じたり、劣等感から不幸と感じているのではないだろうか。まさに人間の迷いの在り方がそこにあるのだろう。
仏の教えは、そんな私たちの姿を照らし出し、比べる必要のない、ありのままの私として生きていく道を示してくださっている。「幸福とは何か」ということを、仏の教えに訪ねてみたい。(う)
自分のあり方に 痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる〜 宮城 顗 〜
2017年3月の言葉
部屋に置いてあるテーブルの足に指先をぶつけたときの痛さは、涙が出るほど痛いもので、置いたのは誰だと怒っている。だが、家族の誰かがぶつけた時は、「注意したら」程度に済ませてしまう。本当に自分勝手である。
医師で作家でもある鎌田實さんは、「医療には優しさがなければならない。そして、その優しさとは、他者への想像力そのものだ」と言われた。
これは、医療にだけ言えることではなく、この世のすべてに言えると感じる。身勝手さは、人間の本性であろう。しかし、そのことに痛みを感じられた時、他者の痛みが自ずと想像でき、ともに生かされているという心が開かれてくる。 (い)
折れてみて 初めて 見えた 鬼の角〜 浅田正作 〜
2017年2月の言葉
福井の民話に「吉崎の嫁脅し」という話がある。
ある家に熱心に吉崎御坊(お寺)へ通う嫁がいた。
それを快く思わない姑が、聞法をやめさせようと、その帰り道に鬼の面をかぶって嫁を脅すのだが、どうしたことか鬼の面が取れなくなってしまった。
嫁と姑は二人で吉崎に出かけ、阿弥陀様に手を合わせると面がはずれ、以後一緒に聞法に励んだそうである。
聞法する時間があるならその分働いて稼げという姑の思い。効率よく、成果を上げることばかり求める現代人の考えと同じである。私達も姑と同じである。
仏智に照らされ、鬼のような私であったと知らされ、愚かな私であったと深く自覚するところに人生の確かな歩みが始まるのではないだろうか。(み)
正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし〜 一休禅師 〜
2017年1月のことば
この言葉は一休禅師が正月に頭蓋骨を持ち街中を歩いた逸話にある。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから家族や友人と祝った。
しかし一休禅師は、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無常をあえて正月に説いたのである。
無常を知ることは命のはかなさを知ること。そして日々を大切に生きる者になる。
しかしそれだけではない。
私の命は私では量り知れないほど多くの命に育まれ今在るのである。また想像できない多くの命を同時支え育んでいる。この尊い命を私は今生きているのである。
このいのちを「無量壽」と言い、無量壽のいのちに目覚めて生きることを仏さまは勧めた。
それがお念仏の教え、帰命無量壽覚である。