苦は時に 予想と事実との 齟齬から生ずる ~蜂屋賢喜代~
苦は時に
予想と事実との
齟齬から生ずる
「齟齬」とは、“くいちがい”のことである。全てが自分の予想通りになるとは、端から誰も思ってはいない。しかし、自分にとって関心の高いことなどが、予想に反した結果になると、その事実を受け入れられず、モヤモヤした気持ちに苦しめられる。人間関係でも、相手に対する思いが大きいほど、くいちがいが生じると「あんな人だとは思わなかった」と恨み節が湧く。
よくよく考えてみれば、自分の都合に立った身勝手な“アテ”が外れただけなのだが、自らの予想が自らの理想だからこそ、素直に事実と向き合えなくなる。詰る所、苦しみの元凶は自分にある、ということなのだが、それが認められない私の根性に、いつもモヤモヤしてしまう。
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自分の番 いのちのバトン ~相田 みつを~
自分の番
いのちのバトン
私たちは、尊い“いのち”をいただいて生かされている。いのちには、量り知れない歴史がある。過去から、無量のいのちのバトンを受けついで、今ここに自分の番を生きている。それは決して、自分が作ったいのちではなく、無数のご縁によって生かされている、全てがおかげさまなのである。
しかし、いつの間にか自分の力で生きていると思いこみ、「どうせ死ぬのだから、どうせ私なんか…」と自暴自棄になることもあるかもしれない。そのような時こそ、お念仏のみ教えに出遇って、「せっかく生きているのだから、せっかくの私なんだから…」と、いのちの事実に気づいてほしい。阿弥陀様はいつも私を見てくださっている。
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心得たと思うは 心得ぬなり 心得ぬと思うは こころえたるなり ~蓮如上人~
心得たと思うは
心得ぬなり
心得ぬと思うは
こころえたるなり
コロナの状況やロシアとウクライナの情勢等、現代は様々なニュースが飛び交う。私たちは、その情報から良い悪いの答えを導き出し、その答えは自分の中で「正しさ」に替わっていく。そして、それを握りしめることで、いつの間にか真実とは遠ざかり、時には人を批判し、傷つけてはいないだろうか。
自分の得た知識や情報を頼りにし、「正しさ」という名の武器で相手を傷つける。それは、分かったつもりになっているだけではないか。この思い込みや勘違いは、自分自身ではなかなか気付けない。「心得た」と思う心は、そこで思考停止に陥ってしまうからである。蓮如上人の言葉は、どこまでも謙虚に学んでいく姿勢を教えてくださっている。
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頭の中のもののために 殺し合うなんて ばかげたことをするのは 生物の中でも人間だけだ ~池田 晶子~
頭の中のもののために
殺し合うなんて
ばかげたことをするのは
生物の中でも
人間だけだ
池田は問う。「人間にとって戦争は本当に悪だろうか」と(『十四歳の君へ』より)。おそらく誰もが「悪」と答えるだろう。池田は、「戦争は共同体が行う排除」と説く。「相手と我々とは違う」という線引きが分断と排除を生み、それが共同体の認識となった時、それぞれの「善」から戦争が生まれるのだと。
さて平素、家庭やネットや近所で、仲間を作ると同時に仲間外れを生み出している私たちはどうなのだろう。分断は常に人の頭の中にある。あいつは嫌い・こいつはだめだと、ハサミのように内なる正義で線引きしつづける人間は、常に小さな排除を作り出しているではないか。この頭の中に小さな戦争がある限り、世界の戦争はなくならない。
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煩悩を 卒業することは できません ~松本 梶丸~
煩悩を
卒業することは
できません
煩悩の代表として、瞋恚・貪欲・愚痴の三つが挙げられる。怒り、むさぼり、不平不満と生活の中でしょっちゅう出てくる感情である。そんな自分に嫌気がさして、事あるごとに「前向きに明るく生きる」「心穏やかに過ごす」生活を目標に挙げてきた。が、年を重ねるごとに益々煩悩に振り回されることが多くなっているようだ。
親鸞聖人は、死の間際まで煩悩と共にあるのが私たちであって、そんな私たちが、煩悩が備わったままに救われる道を説いてくださっている。
煩悩を切り離せないことが問題なのではない。煩悩の責任にして、この身の事実から目を背けている私が問題なのだ。
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石のような心よりなかったと 自覚する以外に道はない それが水の心である ~仲野 良俊~
石のような心よりなかったと
自覚する以外に道はない
それが水の心である
仏教では、自分の力だけを頼りにし、励むことを「自力」という。自力に対し「他力」という言葉は、世間でいう他人の力をあてにすることではなく、どんな私でも包み込むような〝仏さまのはたらき〟をいう。
私たち人間は、努力することができる。しかし、その努力は時に、積み上げた知識や経験を振りかざす〝慢心〟にもなる。本当の努力家は、自分自身のいたらなさを認め、謙虚な姿勢を持っている。
仲野良俊師は、私たちの人生を「堅い石に囲まれた世界」に喩え、「石同士は争うが、水のような心だけは石と争わない」と教えている。堅い石のような自力の心に気づいてほしいという呼びかけが、仏さまのはたらきである。
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生まれてはじめて 迎えたこの年 この生命 ~本夛 惠~
生まれてはじめて
迎えたこの年
この生命
子どもの頃、元旦は特別な日だった。キーンと寒い朝に、新しい下着や靴下を身に着けると、何だか自分まで新しくなったような気がして気分がよかった。今日からちゃんとする、そんな真っ新な気持ちにさせてくれた。元旦は“今まで”が“今から”に切り替わる、“今”という節目を感じられる日だった。“今”という節目が感じられるからこそ、立ち止まって過去の自分と向き合い、見直すことができる。
だが、年々歳を重ねると“今”という節目を感じづらくなり、真新しかった気持ちは、すっかり古ぼけてしまった。新たな年を迎えるたび、本夛師のことばは、“今”を見失う私に、あの時の真っ新な気持ちを思い出させる節目を与えてくれている。
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青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 ~仏説阿彌陀経~
青色青光
黄色黄光
赤色赤光
白色白光
私たちは、他人の目を気にして自分を飾ったり、比較して落ち込んでみたり、そんな日々を過ごしていませんか。
『仏説阿弥陀経』に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とありますが、お浄土の蓮の花はそれぞれが輝いているという意味です。
タンポポがバラの花を咲かすことは不可能です。タンポポはタンポポ、バラはバラです。しかしタンポポが見事にいのち一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことです。他の花と何ら遜色はありません。つまり顔かたちや性格、才能が異なっても、如何に自分の花を咲かせ、いのちを輝かせて生きていくかが大切なのではないでしょうか。
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めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう ~坂村 真民~
めぐりあいの
ふしぎに
てをあわせよう
幼稚園に通う息子が、「なぜ人は生まれてくるの」「なぜ人は死ぬの」と尋ねてくるようになった。いのちについて関心を持つようになり、私は答えのないままに二人で悩むようにしている。色々といのちについて話し合っている時、息子がふと「生んでくれて有り難う」と言ってくれて感動した。
人生は、様々な出会いを繰り返し、私自身を作り上げていく。親子関係においても、不思議とめぐりあった縁に、尊さを感じずにはおれない。
しかし、自分にとって都合の悪い人や事柄に対しても、尊いご縁として手を合わしていけるだろうか。息子から、いのちの尊さと共に、自身の至らなさについて教わっているように思う。
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裏を見せ 表を見せて 散るもみじ ~良寛~
裏を見せ
表を見せて
散るもみじ
子ども好きで穏やかな良寛さん。その人柄の良さは後世の誰もを惹きつける。しかし彼の死因は直腸癌、あるいは大腸癌だったと言う。小説などに美しく描かれた末期と異なり、おそらく痛みと苦しみの中で亡くなっていかれたのではないだろうか。
しかし、だからと言って彼の生き様や人柄はいささかも色あせることはない。苦楽、盛衰、悲喜…人生の終わりにどちらを迎えようと、一人の人間が生き抜いた価値は変わらない。ちょうど紅いもみじの美しさは裏と表の双方があって成り立つように。人の一生は繰り返せず、変わってもらえず、必ず終わりが来る。そしてその終わりがいつ来るかわからない。終わりを見つめつつ今を大切に生きたい。
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