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ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして つっぱる私のようではずかしい~平野修~

今月の言葉

ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして  つっぱる私のようで はずかしい     ~平野修~

 ドーナツを見ていると、物事の本質が見えず、大切な部分を抜け落としている自分を見ているようだ。

 私たちはいつも自我という眼鏡をかけ、物事を見たいようにしか見ておらず、自分の都合で、勝手な思いだけで色々なものを判断していないだろうか。

 普段は、そのような自分に恥ずかしさや罪悪感をもたない。しかし、その事実に気づくきっかけこそが仏法(仏さまの眼)なのである。仏法(仏さまの眼)を通すと、今まで自己中心的で自分の力で生きてきたと思い込んでいた事実が、すべてまわりのおかけで、いわゆる「おかげさま」の中で生かされていた事実に気づかされるのである。

大地から生命が顔を出す人間は雑草と名づける〜本夛惠〜

今月の言葉 

 春を迎えると、植物が芽を出し、花を開かせる。このような芽生えの季節に、いのちの営みを感じずにはおれない。

 しかし、その営みの中にあっても、人間の都合によっては、「雑草」と名づけ、切り捨てていくいのちも現にある。雑草には、微生物や土壌を守る大切な役割があり、一つひとつに名もつけられている。それを、「雑」として一括りにし、都合によって排除する人間の在り方が、掲示板の言葉から問われてくる。

 むしろ、踏みつけられようが、抜かれようが、力強く生きようとする雑草の姿に、人間の方が見習うべきことがあるようだ。

人間はすぐれた意識を 持つことによって かえって迷ったり 悩んだりしている~仲野 良俊~

今月の言葉

人間はすぐれた意識を持つことによってかえって迷ったり悩んだりしている~仲野良俊~

 動物は深く迷ったり悩んだりはしないという。現在を全力で生きる彼らの生は尊い。

 人間はそうはいかない。現在に落ち着けず、過去を悔いて、未来を不安がり、眠れぬ日々を過ごす。

 とはいえ、悩む心があるからこそ、悩みを超えることができるとも言えよう。迷いも悩みもない人生は進歩も深化もしない。迷い悩む自分に気づけてこそ、前に進もうと思う。そして人として生まれ、生きていることを尊いと、うなずくことができるようになるのだ。

 かつて源信僧都は「世の住みうきはいとうたよりなり(世の住みにくさは大切な便り・取意)」と仰った。迷い悩めることは人間の特権である。

悲しむべき鬼が 私たちの心の底に 棲みついている ~ 米沢 英雄 ~

今月の言葉

悲しむべき鬼が 私たちの心の底に 棲みついている ~米沢 英雄 ~

 コロナ禍により様々なことが制限されている今、人と人の「つながり」が問い直されている。改めてつながりの大切さを感じつつも、利害の計算や身勝手な都合でしか他者と関わりあうことができない「私」がいる。

 時に、条件が折り合わなければ相手を切り捨てる。また、その日の気分次第で、相手を全否定するような言葉を投げつけ傷つける。いつでも簡単につながりを断ち切る私は、血も涙もない「鬼」のようである。

 私たちはどのように他者とつながりたいのか。それは、鬼のような在り方をしている自身を悲しむ心を通して、はじめて見えてくるのではないだろうか。

「要するに」と考えてはならぬ ~ 蜂屋 賢喜代 ~

今月の言葉

「要するに」と考えてはならぬ~蜂屋賢喜代~

 相手の意見や説明を遮って「要するに、こういう事でしょ?」と思わず口にしてしまう事はないだろうか。最後まで相手の話を丁寧に聞こうとしない姿勢は、やがて「こうに決まっている」と、自分の思いや予想に都合よく相手を当てはめ、レッテルを貼りつけていく行為に繋がっていくのではないだろうか。

 蜂屋先生は、仏様や信心まで自分の予想に引き寄せて、分かったつもりになることを「予想信」と名づけて戒めた。何事も「要するに」と急げば、分かり合えないが、丁寧に正しく聞けると、「要するに」は必要なく、自ずとお互いの理解が深まっていく。

 今年こそは「要するに」を封印し、新たな一年間を丁寧にお迎えしていきたい。

死にむかって  進んでいるのではない 今をもらって 生きているのだ~鈴木 章子~

今月の言葉

死にむかって進んでいるのではない今をもらって生きているのだ~鈴木章子~

癌によって47 歳で夭折された鈴木章子さんは、闘病中に4人の子どもたちへ綴った詩をいくつも遺された。この言葉は、さらにこのように続く。「今ゼロであって当然の私が今生きている/ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう/新しい生命 嬉しくて踊っています(後略)」。
様々な関係性の中で育まれ、いつ終えていくか分からない“ いのち” を私たちは軽んじてはいないか。自分のいのちでなく、大きな繋がりの中で賜ったいのちとして生きることで、本当に今を大切に思うことができる。自分の生き方を見つめ直し、今を生きる喜びをいただくのが、仏様のはたらきであることを鈴木さんの言葉から感じずにはおれない。

月に達するには 方向を転じて水を澄ます 水自身を澄ませば 月は求めずして来る ~安田理深~

今月の言葉

月に達するには方向を転じて水を澄ます 水自身を澄ませば月は求めずして来る~安田理深~

何がしかの事件や出来事に心をかき乱される。毎日のことでである。普通ならその原因を追及し、解決のために声をあげ、話し合い、状況を変えようとするもの。しかしそれでも世の中が思い通りになってくれるはずもなく、結果として内心に悲しみと苦しみを抱えて生きることになる。
そこで視点を変え、自らを見つめ直してみないか、と仏教は教えてくれる。澄んだ心の水面に、鏡の如く自らを観る。すると実は外因だけでなく、内面に巣食らうこだわりや、当てにしようと思う心があって、怒りが外にばかり向けられていたことに気づく。
「そうだったぁ」と報された感謝を報恩と呼ぶ。外に正義を訴えかけるだけでは足りないのだ。

おろか者と気がつけば 人に教えを聞く こころになる~高光大船~

今月の言葉

おろか者と気がつけば人に教えを聞くこころになる~高光大船~

人間が誕生して、幾日が経つだろうか。日進月歩であることは間違いない。そして、賢くなることが大事で、愚かなることを許さない主張が主である。
しかし、自分を見つめてみると、頑張ってはみるが、どうしようもない自分に出会うことがある。これだけしても無理なのかと。そこには、自分が頑張ることしか思いつかない。何でもできるという自負が、ぬぐえない自身が見え隠れしている。
仏の教えは、愚かなることを、素直に見つめさせるものだ。それは、自分のことが分かっていないということをである。教えに依りながら生きている方から、その事を教えていただくしかないのだ。まずその時が、報恩講だと思わされる。

食べ物様には 仏がござる 拝んで食べなされ~宇野正一~

今月の言葉

食べ物様には 仏がござる 拝んで食べなされ~宇野正一~

標記の言葉は、宇野さんが少年時代にお祖父さんからよく聞かされた言葉だそうだ。宇野少年は実際に食べ物を顕微鏡で見てみたが仏は見えず、学校の先生に尋ねるとそれは迷信だと笑われたそうだ。
私たちは食べないと死んでしまう。目には見えないけれども食べ物には私を生かすはたらきがある。お祖父さんは、はたらきそのものを仏と呼んだのだろう。
私たちは、今ここに在ることを当たり前のようにして生きているが、食べ物に限らず、水、空気、日の光、大地、あらゆるところに私を生かす「仏がござる」のであって、「生きよ、生きよ」と私を励ましておられる。

重い墓石の下へはゆかぬ 縁ある人々のこころの中が 私のすみか ~榎本栄一~

今月の言葉

重い墓石の下へはゆかぬ 縁ある人々のこころの中がわたしのすみか~榎本栄一~

人は亡くなったら何処へ行ってしまうのか。誰しもが抱く疑問ではないだろうか。お釈
迦様は死後のことについて、あなたたちの人生に関わりの無いことだからと、何もお答え
にならなかったという。
亡くなった方々の行方は、縁が深いほど気になるもの。お墓を前に様々な思いがこみ上げてくる。
しかし、その思いはお墓からやって来るのではい。自分のこころの中から、数々の思い出を通して、自然と湧き上がってくるものだ。お参りをきっかけに、いつも私と一緒にいてくれている、大切な存在にふと、気付かされる。

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