秋彼岸 しみじみおもう 身のおろか ~木村 無相~
秋彼岸
しみじみおもう
身のおろか
~木村 無相~
秋分の日を中日としたその前後3日間は秋のお彼岸である。お寺では彼岸会法要が勤まり、仏法を聴聞する大切な機会である。
昨今の競争社会において、誰もが他者より少しでも優位に立ちたいという思いを抱えているのではないだろうか。自身の能力や知識を向上させようと、様々なことに関心を広げ、ついには仏教の教えも知識と捉え、何かの役に立つのではと考えてしまう。
仏法聴聞とは、仏の智慧をいただくことである。何かと比べてこの身の幸せを測るような生き方しか出来ない私の姿が照らし出されてくるとともに、ここにこうして命を賜り生きていることの不可思議さと喜びを気づかせていただくのであろう。
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生命への畏敬の 欠けたところに 教育はない ~林 竹二~
生命への畏敬の
欠けたところに
教育はない
~林 竹二~
私たちの日常における悩みの大半は、「人間関係」から来るものだ。家庭では家族の関係に悩み、職場では職場の関係に悩む。
今月は、昭和期に活躍された教育者の林竹二氏の言葉で、受けとめは様々だが、〝人が生きる事の重さや尊さを感覚できることがなければ、教育は成り立たない”ということだろう。
ある先達から、人間関係には「教育関係」が必要であると教えられた。親子でも、子が誕生して初めて親となるように、共に学び成長するものだ(共育とも)。一方的な偏見や思い込み(立場の決めつけ)で相手を見ることなく、互いの存在を尊び敬い合う教育関係の元に、豊かな人間関係が築かれる。
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だまっている奴は物騒だ 騒ぎ立てる奴は そうでもない ~ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ~
だまっている奴は物騒だ
騒ぎ立てる奴は
そうでもない
~ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ~
悶々と不平不満を溜め込み、相手との関係を「黙る」ことで遮断したという経験をお持ちの方は多いだろう。17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの言葉は、対話のない関係の恐ろしさを示唆する。
「合う・合わない」はあるが、それでも対話を重ねることで、徐々に多様な考えや感覚に触れて視野が広がる。結果として自分を見直す機会となるのだろう。蓮如上人のお言葉に「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。」とある。丁寧で慎重な対話を通して心底を感じ合うことが「物騒」を払拭する一番の方法なのかもしれない。
一方、不満を撒き散らして騒ぎ立てる私は「そうでもない」という中途半端な部類なのだろう。
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やり直しのきかぬ 人生であるが 見直すことはできる ~金子大榮~
やり直しのきかぬ人生であるが見直すことはできる 〜金子大榮〜
私たちは、子どもの頃から親や家族に期待されて育ってきた。運動会では1番になれ、勉強では100点をとれ、そして世の中の役に立つ人間になれと言われて育ってきた。けれども、運動会で1等賞をとるのは一人だけ、試験で満点を取るのは大変である。そこで、一生懸命それに向けて努力することが大切だと言われてきた人が多いのではないか。
しかし、人生では躓くことがよくある。その躓いた時、この言葉が響いてくる。躓いたから駄目なのではなく、躓いたからこそ開かれてくる、違った道もあるよと示して下さっているようだ。1等賞、満点の生き方でなくていいよと、温かく見守ってくれる言葉ではないかと思う。
ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして つっぱる私のようではずかしい~平野修~
ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして つっぱる私のようで はずかしい ~平野修~
ドーナツを見ていると、物事の本質が見えず、大切な部分を抜け落としている自分を見ているようだ。
私たちはいつも自我という眼鏡をかけ、物事を見たいようにしか見ておらず、自分の都合で、勝手な思いだけで色々なものを判断していないだろうか。
普段は、そのような自分に恥ずかしさや罪悪感をもたない。しかし、その事実に気づくきっかけこそが仏法(仏さまの眼)なのである。仏法(仏さまの眼)を通すと、今まで自己中心的で自分の力で生きてきたと思い込んでいた事実が、すべてまわりのおかけで、いわゆる「おかげさま」の中で生かされていた事実に気づかされるのである。
大地から生命が顔を出す人間は雑草と名づける〜本夛惠〜
春を迎えると、植物が芽を出し、花を開かせる。このような芽生えの季節に、いのちの営みを感じずにはおれない。
しかし、その営みの中にあっても、人間の都合によっては、「雑草」と名づけ、切り捨てていくいのちも現にある。雑草には、微生物や土壌を守る大切な役割があり、一つひとつに名もつけられている。それを、「雑」として一括りにし、都合によって排除する人間の在り方が、掲示板の言葉から問われてくる。
むしろ、踏みつけられようが、抜かれようが、力強く生きようとする雑草の姿に、人間の方が見習うべきことがあるようだ。
人間はすぐれた意識を 持つことによって かえって迷ったり 悩んだりしている~仲野 良俊~
人間はすぐれた意識を持つことによってかえって迷ったり悩んだりしている~仲野良俊~
動物は深く迷ったり悩んだりはしないという。現在を全力で生きる彼らの生は尊い。
人間はそうはいかない。現在に落ち着けず、過去を悔いて、未来を不安がり、眠れぬ日々を過ごす。
とはいえ、悩む心があるからこそ、悩みを超えることができるとも言えよう。迷いも悩みもない人生は進歩も深化もしない。迷い悩む自分に気づけてこそ、前に進もうと思う。そして人として生まれ、生きていることを尊いと、うなずくことができるようになるのだ。
かつて源信僧都は「世の住みうきはいとうたよりなり(世の住みにくさは大切な便り・取意)」と仰った。迷い悩めることは人間の特権である。
悲しむべき鬼が 私たちの心の底に 棲みついている ~ 米沢 英雄 ~
悲しむべき鬼が 私たちの心の底に 棲みついている ~米沢 英雄 ~
コロナ禍により様々なことが制限されている今、人と人の「つながり」が問い直されている。改めてつながりの大切さを感じつつも、利害の計算や身勝手な都合でしか他者と関わりあうことができない「私」がいる。
時に、条件が折り合わなければ相手を切り捨てる。また、その日の気分次第で、相手を全否定するような言葉を投げつけ傷つける。いつでも簡単につながりを断ち切る私は、血も涙もない「鬼」のようである。
私たちはどのように他者とつながりたいのか。それは、鬼のような在り方をしている自身を悲しむ心を通して、はじめて見えてくるのではないだろうか。
「要するに」と考えてはならぬ ~ 蜂屋 賢喜代 ~
「要するに」と考えてはならぬ~蜂屋賢喜代~
相手の意見や説明を遮って「要するに、こういう事でしょ?」と思わず口にしてしまう事はないだろうか。最後まで相手の話を丁寧に聞こうとしない姿勢は、やがて「こうに決まっている」と、自分の思いや予想に都合よく相手を当てはめ、レッテルを貼りつけていく行為に繋がっていくのではないだろうか。
蜂屋先生は、仏様や信心まで自分の予想に引き寄せて、分かったつもりになることを「予想信」と名づけて戒めた。何事も「要するに」と急げば、分かり合えないが、丁寧に正しく聞けると、「要するに」は必要なく、自ずとお互いの理解が深まっていく。
今年こそは「要するに」を封印し、新たな一年間を丁寧にお迎えしていきたい。
死にむかって 進んでいるのではない 今をもらって 生きているのだ~鈴木 章子~
死にむかって進んでいるのではない今をもらって生きているのだ~鈴木章子~
癌によって47 歳で夭折された鈴木章子さんは、闘病中に4人の子どもたちへ綴った詩をいくつも遺された。この言葉は、さらにこのように続く。「今ゼロであって当然の私が今生きている/ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう/新しい生命 嬉しくて踊っています(後略)」。
様々な関係性の中で育まれ、いつ終えていくか分からない“ いのち” を私たちは軽んじてはいないか。自分のいのちでなく、大きな繋がりの中で賜ったいのちとして生きることで、本当に今を大切に思うことができる。自分の生き方を見つめ直し、今を生きる喜びをいただくのが、仏様のはたらきであることを鈴木さんの言葉から感じずにはおれない。