生まれてはじめて 迎えたこの年 この生命 ~本夛 惠~

生まれてはじめて
迎えたこの年
この生命
子どもの頃、元旦は特別な日だった。キーンと寒い朝に、新しい下着や靴下を身に着けると、何だか自分まで新しくなったような気がして気分がよかった。今日からちゃんとする、そんな真っ新な気持ちにさせてくれた。元旦は“今まで”が“今から”に切り替わる、“今”という節目を感じられる日だった。“今”という節目が感じられるからこそ、立ち止まって過去の自分と向き合い、見直すことができる。
だが、年々歳を重ねると“今”という節目を感じづらくなり、真新しかった気持ちは、すっかり古ぼけてしまった。新たな年を迎えるたび、本夛師のことばは、“今”を見失う私に、あの時の真っ新な気持ちを思い出させる節目を与えてくれている。
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青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 ~仏説阿彌陀経~

青色青光
黄色黄光
赤色赤光
白色白光
私たちは、他人の目を気にして自分を飾ったり、比較して落ち込んでみたり、そんな日々を過ごしていませんか。
『仏説阿弥陀経』に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とありますが、お浄土の蓮の花はそれぞれが輝いているという意味です。
タンポポがバラの花を咲かすことは不可能です。タンポポはタンポポ、バラはバラです。しかしタンポポが見事にいのち一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことです。他の花と何ら遜色はありません。つまり顔かたちや性格、才能が異なっても、如何に自分の花を咲かせ、いのちを輝かせて生きていくかが大切なのではないでしょうか。
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めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう ~坂村 真民~

めぐりあいの
ふしぎに
てをあわせよう
幼稚園に通う息子が、「なぜ人は生まれてくるの」「なぜ人は死ぬの」と尋ねてくるようになった。いのちについて関心を持つようになり、私は答えのないままに二人で悩むようにしている。色々といのちについて話し合っている時、息子がふと「生んでくれて有り難う」と言ってくれて感動した。
人生は、様々な出会いを繰り返し、私自身を作り上げていく。親子関係においても、不思議とめぐりあった縁に、尊さを感じずにはおれない。
しかし、自分にとって都合の悪い人や事柄に対しても、尊いご縁として手を合わしていけるだろうか。息子から、いのちの尊さと共に、自身の至らなさについて教わっているように思う。
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裏を見せ 表を見せて 散るもみじ ~良寛~

裏を見せ
表を見せて
散るもみじ
子ども好きで穏やかな良寛さん。その人柄の良さは後世の誰もを惹きつける。しかし彼の死因は直腸癌、あるいは大腸癌だったと言う。小説などに美しく描かれた末期と異なり、おそらく痛みと苦しみの中で亡くなっていかれたのではないだろうか。
しかし、だからと言って彼の生き様や人柄はいささかも色あせることはない。苦楽、盛衰、悲喜…人生の終わりにどちらを迎えようと、一人の人間が生き抜いた価値は変わらない。ちょうど紅いもみじの美しさは裏と表の双方があって成り立つように。人の一生は繰り返せず、変わってもらえず、必ず終わりが来る。そしてその終わりがいつ来るかわからない。終わりを見つめつつ今を大切に生きたい。
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秋彼岸 しみじみおもう 身のおろか ~木村 無相~

秋彼岸
しみじみおもう
身のおろか
~木村 無相~
秋分の日を中日としたその前後3日間は秋のお彼岸である。お寺では彼岸会法要が勤まり、仏法を聴聞する大切な機会である。
昨今の競争社会において、誰もが他者より少しでも優位に立ちたいという思いを抱えているのではないだろうか。自身の能力や知識を向上させようと、様々なことに関心を広げ、ついには仏教の教えも知識と捉え、何かの役に立つのではと考えてしまう。
仏法聴聞とは、仏の智慧をいただくことである。何かと比べてこの身の幸せを測るような生き方しか出来ない私の姿が照らし出されてくるとともに、ここにこうして命を賜り生きていることの不可思議さと喜びを気づかせていただくのであろう。
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生命への畏敬の 欠けたところに 教育はない ~林 竹二~

生命への畏敬の
欠けたところに
教育はない
~林 竹二~
私たちの日常における悩みの大半は、「人間関係」から来るものだ。家庭では家族の関係に悩み、職場では職場の関係に悩む。
今月は、昭和期に活躍された教育者の林竹二氏の言葉で、受けとめは様々だが、〝人が生きる事の重さや尊さを感覚できることがなければ、教育は成り立たない”ということだろう。
ある先達から、人間関係には「教育関係」が必要であると教えられた。親子でも、子が誕生して初めて親となるように、共に学び成長するものだ(共育とも)。一方的な偏見や思い込み(立場の決めつけ)で相手を見ることなく、互いの存在を尊び敬い合う教育関係の元に、豊かな人間関係が築かれる。
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だまっている奴は物騒だ 騒ぎ立てる奴は そうでもない ~ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ~

だまっている奴は物騒だ
騒ぎ立てる奴は
そうでもない
~ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ~
悶々と不平不満を溜め込み、相手との関係を「黙る」ことで遮断したという経験をお持ちの方は多いだろう。17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの言葉は、対話のない関係の恐ろしさを示唆する。
「合う・合わない」はあるが、それでも対話を重ねることで、徐々に多様な考えや感覚に触れて視野が広がる。結果として自分を見直す機会となるのだろう。蓮如上人のお言葉に「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。」とある。丁寧で慎重な対話を通して心底を感じ合うことが「物騒」を払拭する一番の方法なのかもしれない。
一方、不満を撒き散らして騒ぎ立てる私は「そうでもない」という中途半端な部類なのだろう。
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やり直しのきかぬ 人生であるが 見直すことはできる ~金子大榮~

やり直しのきかぬ人生であるが見直すことはできる 〜金子大榮〜
私たちは、子どもの頃から親や家族に期待されて育ってきた。運動会では1番になれ、勉強では100点をとれ、そして世の中の役に立つ人間になれと言われて育ってきた。けれども、運動会で1等賞をとるのは一人だけ、試験で満点を取るのは大変である。そこで、一生懸命それに向けて努力することが大切だと言われてきた人が多いのではないか。
しかし、人生では躓くことがよくある。その躓いた時、この言葉が響いてくる。躓いたから駄目なのではなく、躓いたからこそ開かれてくる、違った道もあるよと示して下さっているようだ。1等賞、満点の生き方でなくていいよと、温かく見守ってくれる言葉ではないかと思う。
ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして つっぱる私のようではずかしい~平野修~

ドーナツを見ていると 中心がなく 外側の皮や肉ばかりふやして つっぱる私のようで はずかしい ~平野修~
ドーナツを見ていると、物事の本質が見えず、大切な部分を抜け落としている自分を見ているようだ。
私たちはいつも自我という眼鏡をかけ、物事を見たいようにしか見ておらず、自分の都合で、勝手な思いだけで色々なものを判断していないだろうか。
普段は、そのような自分に恥ずかしさや罪悪感をもたない。しかし、その事実に気づくきっかけこそが仏法(仏さまの眼)なのである。仏法(仏さまの眼)を通すと、今まで自己中心的で自分の力で生きてきたと思い込んでいた事実が、すべてまわりのおかけで、いわゆる「おかげさま」の中で生かされていた事実に気づかされるのである。
大地から生命が顔を出す人間は雑草と名づける〜本夛惠〜
春を迎えると、植物が芽を出し、花を開かせる。このような芽生えの季節に、いのちの営みを感じずにはおれない。
しかし、その営みの中にあっても、人間の都合によっては、「雑草」と名づけ、切り捨てていくいのちも現にある。雑草には、微生物や土壌を守る大切な役割があり、一つひとつに名もつけられている。それを、「雑」として一括りにし、都合によって排除する人間の在り方が、掲示板の言葉から問われてくる。
むしろ、踏みつけられようが、抜かれようが、力強く生きようとする雑草の姿に、人間の方が見習うべきことがあるようだ。