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愚禿が心は内は愚にして外は賢なり ~親鸞聖人~

今月の言葉

愚禿が心は内は愚にして外は賢なり~親鸞聖人~

「京都人は腹黒い」。地方の友人と出身地の話になると、必ずと言っていいほど言われてきたセリフだ。本音と建前を美徳にしてきた京都ならではの文化は、どうも今の時代にそぐわないようで、嫌みにさえ取られかねないようである。なぜなら、そこには相手を傷つけないための気遣いや優しさとは別に、「うわべ」や「ごまかし」といった心が皆無とは言えないからではないだろうか。
しかし、人間は誰しも、外見では賢く振る舞って生きていこうとする心をもっているのではないだろうか。自らを偽らずに生きていこうとする宗祖の決意を明らかにした「愚禿」なる言葉は、まさに私たちの生き方を問う言葉に思えてならない。

一切は縁において生まれ縁においてあり縁において去ってゆく ~宮城顗~

今月の言葉

一切は縁において生まれ縁においてあり縁において去っていく〜宮城顗〜

新型コロナウイルスによって、我われの日常生活に支障をきたし、厳しい経済状況にあることが多く報じられている。また、人のいのちを奪っていく現実は、数値でしかなかなか報道されない。先日、ウイルス感染によって亡くなられた方の話を聞いた。ご遺族は、葬儀も出来ず、最期の別れの場でも距離を置き、悲しみに追い打ちをかけられたという。
誰しもが縁によって生まれ死んでいくことは分かっているが、いざ死を前にしたとき、なかなかそのことに頷けない。人生はどうしようもない出来事の連続である。仏法に遇うことは、その頷けない自分との出遇いではないか。仏法を通して、今の世情、自分自身の在り方を受け止めていきたいと思う。

見えないところでつながりあって生きているのは竹だけではない ~東井義雄~

今月の言葉

見えないところで つながりあって 生きているのは 竹だけではない~東井義雄~

新型コロナウイルス感染症が猛威を振るっている。自分自身や周囲の親しい人の健康を守るため、マスクの着用やうがい、消毒を頻繁に行う毎日である。
感染拡大防止の取り組みによる緊張と先行きの見えない不安からか、健康を脅かすものに攻撃的になりがちである。咳をする人をにらみ、外出自粛要請のなか街に出る者を非難し、ついには感染者を悪者にし、遠ざけようとする。我が身を守る為とはいえ、他者との関係を遮断していくような生活は安心よりも息苦しさを感じてしまう。
日常の生活では、どこまでも私の思いが優先され、利己主義で生きざるを得ない。しかし、頂いた「いのち」は人とのつながりを求め、一切衆生と共に生きたいと願っている。

人間は偉いものではない尊いものです~安田理仁~

今月の掲示板

人間は偉いものではない尊いものです~安田理深~

ある駅で乗客と駅員の揉め事に出くわした。原因は分からないが、乗客が高圧的に「客」であることを振りかざし、駅員に詰め寄っていた。だが、矢次に吐き出されるその言葉には、歪んだ社会的立場の優劣を笠に着る「弱さ」が滲んでいた。
立場の上下や優劣などの価値評価(偉さ)のみに囚われて生じる驕りや僻みを越え、「平等なるいのちに帰れ」という本願の喚び声によって、お互いがかけがえのない存在(同朋)であったと気づき遇えた時、私たちは人間としての「尊さ」に初めて目覚め、争いに煩わされない「真の強さ」に生きることができるのではないだろうか。私の「弱さ」に出遇う。難しいが、ここが突破口なのかもしれない。

説明は 説迷である~高光大船~

今月の言葉

説明は 説迷である~高光大船~

人と意見があわないことは誰しもが経験することである。そこで互いに溝を埋めようと懸命に説明し、言葉を尽くす。しかしそうすればするほど結局は自己弁護ばかりに終わってしまうものである。
私たちは「理解」ということにとても執着する。近代文明の基礎が「知性による理解」であるからであろう。しかし知性こそが互いを傷つけ、貶め合い、果てにはあらぬ絶望を招く根本の要因ではないだろうか。人は知性のみで生きているわけではない。
仏法は「出遇う」と表現される。知性の衣を脱ぎ、「わからなくてもきく」ことが大切である。知性に迷う私たち。手を合わせ、身を通していただく「まことの智慧」に出遇いたいものである。

やり直しのきかない人生待ったなしの命~相田みつを~

今月の言葉

やり直しのきかない人生 待ったなしの命~相田みつを~

この言葉を見ると、ロックバンド「かりゆし58」の『鳴呼、人生が二度あれば』の歌詞が頭に浮かぶ。
人生、やり直しがきくならば、きっと辛く苦しい過去も無かったことにできるだろう。しかし、二度目の人生によって得るものがある代わりに、何か大切なことも失われるように思えてならない。〝人生が二度あれば覚悟なんて意味をなくすだろう〟〝涙なんて流れはしないだろう〟そして〝いのちがこんなに輝きはしないだろう〟。
やり直しのきかない人生だからこそ、待ったなしの命だからこそ、私たちは真剣に自身と向き合い、その瞬間を生きていくことができるのではないだろうか。

生を問い 死を問う そこに人生の意味が 見いだされる ~正親 含英~

今月の言葉

生を問い死を問う そこに人生の意味が見いだされる~正親含英~

新年を迎えた。同じ年を繰り返し迎えることはない。初めて出会う、この時この年である。日頃は何かと忙しくしているが、一年の計と言われるように、自身を見つめさせる大切な時と場を私たちに持たせている。

釈尊は、人生を「生・老・病・死」の苦の連続とおさえられた。そして、その迷いの人生から目覚める道を明らかにされた。しかし、我われは、その苦を問いとは感じていない。

この言葉には、人生の意味とある。ということは、味わってみないとわからないのである。甘いか、辛いか、酸っぱいか。どういう味であるのか。苦という言葉で決め付けてしまっている味を、もう一度噛み締めてみると、いいのではないか。

猫に小判というが あわれ人間は その小判に目がくらむ~榎本栄一~

今月の掲示板

猫に小判というが あわれ人間は その小判に目がくらむ~榎本栄一~

「猫に小判」とは、価値のわからない者に高価なものを与えても無駄であることの譬えである。猫にとって小判は遊びの道具の一つだろうが、人間にとって小判(お金)は、生活に欠かせない大切なものである。しかしお金は本来、物品と交換するために作られた手段であり道具である。人間は、そのお金に必要以上の価値や意味を持たせて「お金さえあれば何でも解決できる」という思い上がった価値観を生み出してはいないか。また、その価値観によって人間が振り回され、悩み苦しんでいるように思える。
年の暮れに今年一年、自分自身が一体何に価値を感じていたのかを改めて仏法にたずねて確かめていきたい。

成らぬことを成ると信じているから迷信という~蜂屋賢喜代~

今月の言葉

成らぬことを成ると信じているから迷信という~蜂屋賢喜代~

「プラス思考」。広辞苑によると「物事の良い面を捉えようとする前向きな考え方」とある。物事を自分の損得や好き嫌いを離れて、そのままに受け止めると、自分との間に動かしようのない「事実」が自ずと現実として浮かび上がる。結果、歩むべき道が開け、迷わず前に進むことができるのだろう。

だが、私たちはつい、どうにもならない物事を無理矢理に捻じ曲げ、自分の都合に合わせた道を作り出す。これで良かったのだと信じ込んで突き進めば、事実と現実からは次第に離れ、やがて人生という道を見失い、迷うこととなる。プラス思考を「迷信」にしてはならない。

疑は 暗鬼を産み  信は 如来を生む

今月の掲示板

疑は暗鬼を産み 信は如来を生む

諺に「疑心悪鬼を生ず」とありますが、自分の心に疑いが起こる時、自分の周りを悪い鬼として生み出していくという譬えです。みんな幸せを求めて生きていますが、その幸せの尺度は、他の人と自分とを比べて判断しているのです。物をたくさん持っているけれども、誰かに足元をすくわれるのではないかと戦々恐々とし、却って幸せとはほど遠い生活になっているのではないでしょうか。

「疑心」とは、仏教から出た言葉で、根本煩悩(煩い悩ませる)の一つであり、真理をうたがうということです。この私を、真実の道に歩ませようとする教えを疑うことなのです。如来を生むとは、疑わない心ではなく、疑いようのない真実に出会い、自分の中に信の心が生まれてくる縁となることなのでしょう。

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