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月に達するには 方向を転じて水を澄ます 水自身を澄ませば 月は求めずして来る ~安田理深~

今月の言葉

月に達するには方向を転じて水を澄ます 水自身を澄ませば月は求めずして来る~安田理深~

何がしかの事件や出来事に心をかき乱される。毎日のことでである。普通ならその原因を追及し、解決のために声をあげ、話し合い、状況を変えようとするもの。しかしそれでも世の中が思い通りになってくれるはずもなく、結果として内心に悲しみと苦しみを抱えて生きることになる。
そこで視点を変え、自らを見つめ直してみないか、と仏教は教えてくれる。澄んだ心の水面に、鏡の如く自らを観る。すると実は外因だけでなく、内面に巣食らうこだわりや、当てにしようと思う心があって、怒りが外にばかり向けられていたことに気づく。
「そうだったぁ」と報された感謝を報恩と呼ぶ。外に正義を訴えかけるだけでは足りないのだ。

おろか者と気がつけば 人に教えを聞く こころになる~高光大船~

今月の言葉

おろか者と気がつけば人に教えを聞くこころになる~高光大船~

人間が誕生して、幾日が経つだろうか。日進月歩であることは間違いない。そして、賢くなることが大事で、愚かなることを許さない主張が主である。
しかし、自分を見つめてみると、頑張ってはみるが、どうしようもない自分に出会うことがある。これだけしても無理なのかと。そこには、自分が頑張ることしか思いつかない。何でもできるという自負が、ぬぐえない自身が見え隠れしている。
仏の教えは、愚かなることを、素直に見つめさせるものだ。それは、自分のことが分かっていないということをである。教えに依りながら生きている方から、その事を教えていただくしかないのだ。まずその時が、報恩講だと思わされる。

食べ物様には 仏がござる 拝んで食べなされ~宇野正一~

今月の言葉

食べ物様には 仏がござる 拝んで食べなされ~宇野正一~

標記の言葉は、宇野さんが少年時代にお祖父さんからよく聞かされた言葉だそうだ。宇野少年は実際に食べ物を顕微鏡で見てみたが仏は見えず、学校の先生に尋ねるとそれは迷信だと笑われたそうだ。
私たちは食べないと死んでしまう。目には見えないけれども食べ物には私を生かすはたらきがある。お祖父さんは、はたらきそのものを仏と呼んだのだろう。
私たちは、今ここに在ることを当たり前のようにして生きているが、食べ物に限らず、水、空気、日の光、大地、あらゆるところに私を生かす「仏がござる」のであって、「生きよ、生きよ」と私を励ましておられる。

重い墓石の下へはゆかぬ 縁ある人々のこころの中が 私のすみか ~榎本栄一~

今月の言葉

重い墓石の下へはゆかぬ 縁ある人々のこころの中がわたしのすみか~榎本栄一~

人は亡くなったら何処へ行ってしまうのか。誰しもが抱く疑問ではないだろうか。お釈
迦様は死後のことについて、あなたたちの人生に関わりの無いことだからと、何もお答え
にならなかったという。
亡くなった方々の行方は、縁が深いほど気になるもの。お墓を前に様々な思いがこみ上げてくる。
しかし、その思いはお墓からやって来るのではい。自分のこころの中から、数々の思い出を通して、自然と湧き上がってくるものだ。お参りをきっかけに、いつも私と一緒にいてくれている、大切な存在にふと、気付かされる。

愚禿が心は内は愚にして外は賢なり ~親鸞聖人~

今月の言葉

愚禿が心は内は愚にして外は賢なり~親鸞聖人~

「京都人は腹黒い」。地方の友人と出身地の話になると、必ずと言っていいほど言われてきたセリフだ。本音と建前を美徳にしてきた京都ならではの文化は、どうも今の時代にそぐわないようで、嫌みにさえ取られかねないようである。なぜなら、そこには相手を傷つけないための気遣いや優しさとは別に、「うわべ」や「ごまかし」といった心が皆無とは言えないからではないだろうか。
しかし、人間は誰しも、外見では賢く振る舞って生きていこうとする心をもっているのではないだろうか。自らを偽らずに生きていこうとする宗祖の決意を明らかにした「愚禿」なる言葉は、まさに私たちの生き方を問う言葉に思えてならない。

一切は縁において生まれ縁においてあり縁において去ってゆく ~宮城顗~

今月の言葉

一切は縁において生まれ縁においてあり縁において去っていく〜宮城顗〜

新型コロナウイルスによって、我われの日常生活に支障をきたし、厳しい経済状況にあることが多く報じられている。また、人のいのちを奪っていく現実は、数値でしかなかなか報道されない。先日、ウイルス感染によって亡くなられた方の話を聞いた。ご遺族は、葬儀も出来ず、最期の別れの場でも距離を置き、悲しみに追い打ちをかけられたという。
誰しもが縁によって生まれ死んでいくことは分かっているが、いざ死を前にしたとき、なかなかそのことに頷けない。人生はどうしようもない出来事の連続である。仏法に遇うことは、その頷けない自分との出遇いではないか。仏法を通して、今の世情、自分自身の在り方を受け止めていきたいと思う。

見えないところでつながりあって生きているのは竹だけではない ~東井義雄~

今月の言葉

見えないところで つながりあって 生きているのは 竹だけではない~東井義雄~

新型コロナウイルス感染症が猛威を振るっている。自分自身や周囲の親しい人の健康を守るため、マスクの着用やうがい、消毒を頻繁に行う毎日である。
感染拡大防止の取り組みによる緊張と先行きの見えない不安からか、健康を脅かすものに攻撃的になりがちである。咳をする人をにらみ、外出自粛要請のなか街に出る者を非難し、ついには感染者を悪者にし、遠ざけようとする。我が身を守る為とはいえ、他者との関係を遮断していくような生活は安心よりも息苦しさを感じてしまう。
日常の生活では、どこまでも私の思いが優先され、利己主義で生きざるを得ない。しかし、頂いた「いのち」は人とのつながりを求め、一切衆生と共に生きたいと願っている。

人間は偉いものではない尊いものです~安田理仁~

今月の掲示板

人間は偉いものではない尊いものです~安田理深~

ある駅で乗客と駅員の揉め事に出くわした。原因は分からないが、乗客が高圧的に「客」であることを振りかざし、駅員に詰め寄っていた。だが、矢次に吐き出されるその言葉には、歪んだ社会的立場の優劣を笠に着る「弱さ」が滲んでいた。
立場の上下や優劣などの価値評価(偉さ)のみに囚われて生じる驕りや僻みを越え、「平等なるいのちに帰れ」という本願の喚び声によって、お互いがかけがえのない存在(同朋)であったと気づき遇えた時、私たちは人間としての「尊さ」に初めて目覚め、争いに煩わされない「真の強さ」に生きることができるのではないだろうか。私の「弱さ」に出遇う。難しいが、ここが突破口なのかもしれない。

説明は 説迷である~高光大船~

今月の言葉

説明は 説迷である~高光大船~

人と意見があわないことは誰しもが経験することである。そこで互いに溝を埋めようと懸命に説明し、言葉を尽くす。しかしそうすればするほど結局は自己弁護ばかりに終わってしまうものである。
私たちは「理解」ということにとても執着する。近代文明の基礎が「知性による理解」であるからであろう。しかし知性こそが互いを傷つけ、貶め合い、果てにはあらぬ絶望を招く根本の要因ではないだろうか。人は知性のみで生きているわけではない。
仏法は「出遇う」と表現される。知性の衣を脱ぎ、「わからなくてもきく」ことが大切である。知性に迷う私たち。手を合わせ、身を通していただく「まことの智慧」に出遇いたいものである。

やり直しのきかない人生待ったなしの命~相田みつを~

今月の言葉

やり直しのきかない人生 待ったなしの命~相田みつを~

この言葉を見ると、ロックバンド「かりゆし58」の『鳴呼、人生が二度あれば』の歌詞が頭に浮かぶ。
人生、やり直しがきくならば、きっと辛く苦しい過去も無かったことにできるだろう。しかし、二度目の人生によって得るものがある代わりに、何か大切なことも失われるように思えてならない。〝人生が二度あれば覚悟なんて意味をなくすだろう〟〝涙なんて流れはしないだろう〟そして〝いのちがこんなに輝きはしないだろう〟。
やり直しのきかない人生だからこそ、待ったなしの命だからこそ、私たちは真剣に自身と向き合い、その瞬間を生きていくことができるのではないだろうか。

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