生を問い 死を問う そこに人生の意味が 見いだされる ~正親 含英~
生を問い死を問う そこに人生の意味が見いだされる~正親含英~
新年を迎えた。同じ年を繰り返し迎えることはない。初めて出会う、この時この年である。日頃は何かと忙しくしているが、一年の計と言われるように、自身を見つめさせる大切な時と場を私たちに持たせている。
釈尊は、人生を「生・老・病・死」の苦の連続とおさえられた。そして、その迷いの人生から目覚める道を明らかにされた。しかし、我われは、その苦を問いとは感じていない。
この言葉には、人生の意味とある。ということは、味わってみないとわからないのである。甘いか、辛いか、酸っぱいか。どういう味であるのか。苦という言葉で決め付けてしまっている味を、もう一度噛み締めてみると、いいのではないか。
猫に小判というが あわれ人間は その小判に目がくらむ~榎本栄一~
猫に小判というが あわれ人間は その小判に目がくらむ~榎本栄一~
「猫に小判」とは、価値のわからない者に高価なものを与えても無駄であることの譬えである。猫にとって小判は遊びの道具の一つだろうが、人間にとって小判(お金)は、生活に欠かせない大切なものである。しかしお金は本来、物品と交換するために作られた手段であり道具である。人間は、そのお金に必要以上の価値や意味を持たせて「お金さえあれば何でも解決できる」という思い上がった価値観を生み出してはいないか。また、その価値観によって人間が振り回され、悩み苦しんでいるように思える。
年の暮れに今年一年、自分自身が一体何に価値を感じていたのかを改めて仏法にたずねて確かめていきたい。
成らぬことを成ると信じているから迷信という~蜂屋賢喜代~
成らぬことを成ると信じているから迷信という~蜂屋賢喜代~
「プラス思考」。広辞苑によると「物事の良い面を捉えようとする前向きな考え方」とある。物事を自分の損得や好き嫌いを離れて、そのままに受け止めると、自分との間に動かしようのない「事実」が自ずと現実として浮かび上がる。結果、歩むべき道が開け、迷わず前に進むことができるのだろう。
だが、私たちはつい、どうにもならない物事を無理矢理に捻じ曲げ、自分の都合に合わせた道を作り出す。これで良かったのだと信じ込んで突き進めば、事実と現実からは次第に離れ、やがて人生という道を見失い、迷うこととなる。プラス思考を「迷信」にしてはならない。
疑は 暗鬼を産み 信は 如来を生む
疑は暗鬼を産み 信は如来を生む
諺に「疑心悪鬼を生ず」とありますが、自分の心に疑いが起こる時、自分の周りを悪い鬼として生み出していくという譬えです。みんな幸せを求めて生きていますが、その幸せの尺度は、他の人と自分とを比べて判断しているのです。物をたくさん持っているけれども、誰かに足元をすくわれるのではないかと戦々恐々とし、却って幸せとはほど遠い生活になっているのではないでしょうか。
「疑心」とは、仏教から出た言葉で、根本煩悩(煩い悩ませる)の一つであり、真理をうたがうということです。この私を、真実の道に歩ませようとする教えを疑うことなのです。如来を生むとは、疑わない心ではなく、疑いようのない真実に出会い、自分の中に信の心が生まれてくる縁となることなのでしょう。
あいつは嫌い これは駄目 あいつは困る こいつはいいと切り続ける 私はどうもハサミのようだ~平野修~
あいつは嫌い これは駄目 あいつは困る こいつはいいと切り続ける 私はどうもハサミのようだ~平野修~
仕事が行き詰ったり人間関係がこじれたりし、頭を抱え込むことがよくある。そうそう思い通りにはならないものだと自分自身に言い聞かせるも、「私が正しい」「なぜわかってもらえないのか」と文句や愚痴が次から次へ溢れ出てくる。
私たち一人一人が、物事を判断する価値観を持っている。その価値観で世の中の善悪、優劣、損得等々をはかり、判断している。我が思いにおさまるように現実を切り取っているのである。
が、そもそも現実は人知を超えた、一個人の価値観でははかりきれない世界である。それをはかれると思っているところに、愚痴が溢れる生活の原因があるのではないだろうか。
毎日食べている ご飯の茶碗の 模様が言えますか~長谷川富三郎~
毎日食べている ご飯の茶碗の 模様が言えますか~長谷川富三郎~
故・東井義雄氏はこの言葉に愕然としたという。どうしても自分の茶碗の模様が思い出せなかったからだ。そこで「毎日キスしながら粗末な出会いをやっとるんです」と反省された。
思えば日々、私たちは想像を絶する量の深く、広い出遇いをし続けている。服も、椅子も、また駅や道でのすれ違いも、必ずそれを用意くださったどこかの誰かに繋がっている。だのに私たちはうっかり「自分のもの・他人のもの」と分けて生きる。これを自力の分別という。
今まで「当たり前」としていた物事の深く広い背景に触れた時、何気ないそれらが輝いて見えてくる。それを他力という。自力では人生は啓かれない。
流れにさからっちゃいかん しかし、流れに 流されてもいかん~弘世現~
流れにさからっちゃいかん しかし、流れに流されてもいかん~弘世現~
時代の流れを見極めるということは非常に難しい。流れに流されるだけなら誰でも出来る。流れに逆らわず、流れに流されず、その流れを見極めることが重要だという氏の教訓がこの言葉で表現されているように思う。
松尾芭蕉の蕉風俳諧の理念に〝不易流行〟という言葉がある。いつまでも変わらない本質と、時代と共に変わる流行はどちらも大切という。
難波別院では、今秋には山門を兼ねた新施設が完成する。松尾芭蕉終焉の地で、仏教の本質を見失うことなく、時代の流れににあわせた新たな試みをとおして、一人ひとりがお念仏の教えに出遇う機縁の場となってほしい。
雨の日には 雨の日の 生き方がある~東井義雄~
雨の日には雨の日の生き方がある~東井義雄~
梅雨の季節に入り、「うっとうしい!」と思う人も少なくないだろう。雨がもたらす自然の恵みは、誰もが分かっている。しかし、そのことが分かっていながらも、日常的には自分の都合によって雨を疎ましく感じてしまう。
雨によって家族との外出を中止にしたことがある。子どもたちは残念そうにしていたが、すぐに雨具を身につけて外の水たまりで楽しそうに遊びはじめた。雨の日も大切なご縁として、そのままにいただいていくことを子どもたちの姿から教えられた。
雨の中にありながら、雨と向き合おうとしない姿勢は、私たちの人生を空しいものとしてしまうのかも知れない。
自然でない行いは自然でない混乱を生む~ウィリアム・シェイクスピア~
自然でない行いは自然でない混乱を生む~ウィリアム・シェイクスピア~
哲学者プラトンは「真理は子どもの口から出る」と言った。忖度や利害などとは無縁の、自然に湧起る感情に任せた子どもの言葉は、しばしば大人たちの詭弁を炙り出す。反対に大人たちの口からは、粘ついた、媚びた言葉が滴り落ちてくる。おかしなことを「おかしい」と言わない(言えない)不自然さは、やがてその社会や組織に異様な混乱を生じさせる。
仏教では「自然」を「じねん」と読む。人間の思いやはからいを越えてはたらく道理のことだ。人は道理のままを受け入れることは難しい。だが、素直に、そして自然に振る舞う子どもたちの姿から、自らの「不自然な行い」を見つめ直すことは、何時でも、出来るのかもしれない。
言葉が通じるということは 心が通じるということ~宮城顗~
言葉が通じるということは心が通じるということ~宮城顗~
最近、SNS等、囁く場が多く利用されています。顔が見えないことや、サインネーム等ということもあり、無神経な言葉が行き交っているように感じることがあります。
言葉を・心を、相手に届けたいというのでなく、自分のうっぷんをただ突き付けるだけで満足してしまう、相手の気持ちはどうでもいい、そんな時代を我われは作ったのでしょうか。
人はひとりでは生きられません。時には厳しく問いかけ励ましてくれ、また時には優しく声をかけてくれる人の言葉が、ともなる時を過ごしていく働きになるのではないでしょうか。