流れにさからっちゃいかん しかし、流れに 流されてもいかん~弘世現~

流れにさからっちゃいかん しかし、流れに流されてもいかん~弘世現~
時代の流れを見極めるということは非常に難しい。流れに流されるだけなら誰でも出来る。流れに逆らわず、流れに流されず、その流れを見極めることが重要だという氏の教訓がこの言葉で表現されているように思う。
松尾芭蕉の蕉風俳諧の理念に〝不易流行〟という言葉がある。いつまでも変わらない本質と、時代と共に変わる流行はどちらも大切という。
難波別院では、今秋には山門を兼ねた新施設が完成する。松尾芭蕉終焉の地で、仏教の本質を見失うことなく、時代の流れににあわせた新たな試みをとおして、一人ひとりがお念仏の教えに出遇う機縁の場となってほしい。
雨の日には 雨の日の 生き方がある~東井義雄~

雨の日には雨の日の生き方がある~東井義雄~
梅雨の季節に入り、「うっとうしい!」と思う人も少なくないだろう。雨がもたらす自然の恵みは、誰もが分かっている。しかし、そのことが分かっていながらも、日常的には自分の都合によって雨を疎ましく感じてしまう。
雨によって家族との外出を中止にしたことがある。子どもたちは残念そうにしていたが、すぐに雨具を身につけて外の水たまりで楽しそうに遊びはじめた。雨の日も大切なご縁として、そのままにいただいていくことを子どもたちの姿から教えられた。
雨の中にありながら、雨と向き合おうとしない姿勢は、私たちの人生を空しいものとしてしまうのかも知れない。
自然でない行いは自然でない混乱を生む~ウィリアム・シェイクスピア~

自然でない行いは自然でない混乱を生む~ウィリアム・シェイクスピア~
哲学者プラトンは「真理は子どもの口から出る」と言った。忖度や利害などとは無縁の、自然に湧起る感情に任せた子どもの言葉は、しばしば大人たちの詭弁を炙り出す。反対に大人たちの口からは、粘ついた、媚びた言葉が滴り落ちてくる。おかしなことを「おかしい」と言わない(言えない)不自然さは、やがてその社会や組織に異様な混乱を生じさせる。
仏教では「自然」を「じねん」と読む。人間の思いやはからいを越えてはたらく道理のことだ。人は道理のままを受け入れることは難しい。だが、素直に、そして自然に振る舞う子どもたちの姿から、自らの「不自然な行い」を見つめ直すことは、何時でも、出来るのかもしれない。
言葉が通じるということは 心が通じるということ~宮城顗~

言葉が通じるということは心が通じるということ~宮城顗~
最近、SNS等、囁く場が多く利用されています。顔が見えないことや、サインネーム等ということもあり、無神経な言葉が行き交っているように感じることがあります。
言葉を・心を、相手に届けたいというのでなく、自分のうっぷんをただ突き付けるだけで満足してしまう、相手の気持ちはどうでもいい、そんな時代を我われは作ったのでしょうか。
人はひとりでは生きられません。時には厳しく問いかけ励ましてくれ、また時には優しく声をかけてくれる人の言葉が、ともなる時を過ごしていく働きになるのではないでしょうか。
人の悪き事はよくよく見ゆるなり わが身の悪き事は覚えざるものなり~ 蓮如上人~

人の悪き事はよくよく見ゆるなり わが身の悪き事は覚えざるものなり~蓮如上人~
気の置けない友人や家族の前で、その場にいない人の欠点をあげつらったり、悪口を言って盛り上がったりする。そんな経験を誰もが一度や二度したことはないだろうか。調子にのって、言わないでいいことまで話し、決まって最後には後味の悪い思いをし、後悔するのがオチである。
後になって反省をするのだが、「悪かった」と反省してみたところで、悪いところを改善できると思い込んでいる限り、見えてくるのは善人面の私の姿ではないだろうか。
どこまでも都合よく私自身を見ようとするその性根を照らし、気づかせるはたらきに出会わない限り、自分自身の闇など思い当たりもしないのだろう。
捨てきれない荷物の重さまえうしろ ~ 種田山頭火 ~

捨てきれない荷物の重さまえうしろ~種田山頭火~
種田山頭火の生涯は、想像を絶する喪失の歩みであった。「捨てきった」はずの彼が行乞の果てに見た風景からは、捨てきれない過去の記憶と未来への思い、日々出遇い続ける人の交わりが感じとれる。
「無縁社会」などとうそぶいたところで、所詮人は一人では生きられない。その事実を「身」とよぶ。身は必ず場所に伴い、その場所を「土」とよぶ。たとえあなたがいま、さすらいの身だとしても、存在している土、すなわち今の居場所が身を育む場として受け取められているかどうかが大切である。
ひと一人では測り知れない世界から、いま与えられている土を想い、我が身について考える。そこから本当の未来は拓かれる。
跂つ者は立たず跨ぐ者は行かず~老子~

跂つ者は立たず 跨ぐ者は行かず~老子~
新年を迎えると、幼い頃の「書き初め」を思い出す。随分と大げさな目標を〝書〟にし、三日坊主で終わっては、よく両親に怒られたものだ。〝三つ子の魂百まで〟とはよく言ったもので、当時と変わらず背伸びをした目標を掲げる自分に嫌気がさす。
今月の言葉を訳するならば「つま先立ちではしっかり立つことができない、大股歩きでは長く歩けない」ということだろう。背伸びをすることも大切だ。時には大股で歩くことも必要かもしれない。しかし、そこには必ず不自然さが生じるとともに、足下がフラフラするものだ。新しい年、まずは自身の足下をしっかり見つめ、ありのままの自分で一歩一歩を確認しながら歩む一年にしたいものだ。
吉凶は人によりて日によらず~吉田兼好~

吉凶は人によりて日によらず~吉田兼好~
年の瀬が近くなると、全国の様々な「パワースポット」が注目される。初詣には有名な神社仏閣を訪れ、あらゆる「験」を担いで損なしという感覚に世代間の差は殆ど無いのかもしれない。書店には平積みで「暦」が並ぶ。現代でも六曜や方角などが「吉凶」を見極める頼りとなっている。だが鎌倉時代末期の随筆家、吉田兼好は現在の己が行いによって未来の良し悪しは左右されると指摘する。親鸞聖人は「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ」と私たちが当たり前の道理に暗いことを悲しみをもって受け止められている。12月、一年間の己が行いを振り返ってみる。さて、来年の私たちに700年前からの指摘はどう響いてくるのだろうか。
我、今帰するところ無く孤独にして同伴無し~源信僧都~

我、今帰するところ無く孤独にして同伴無し~源信僧都~
インターネットカフェの取材番組を見た。安価と街中ということもあり、多くの人が利用し、そこを住まいとしている人もいるようだ。しかし、何かしら表情には疲れが現れているように感じた。
人間は、関係性を生きる存在であると教えていただく。しかし、帰する所を無くしてしまうと、孤独になり、共感してくれる人を見失うようである。関係が希薄ないまを言いあてているようだ。
当院参拝記念印の法語の、「『同朋』という言葉は、喜びも悲しみも共にする、上も下もない真実の教えに出遇った仲間のことを言います。仏教の教えに出遇って、このような温かい人間関係の交わりを大切にしたいものです」と記している。
私たちに偉大な事はできません 偉大な愛で小さなことをするだけです~マザー・テレサ~

私たちに偉大な事はできません 偉大な愛で小さなことをするだけです~マザー・テレサ~
毎年十月はノーベル賞が発表される。今年は文学賞の発表が見送られるとのことで、少し残念な年になる。それでも、平和賞や物理学賞等で、どの様な発見、行動が世界に貢献したのか興味は尽きない。
ノーベル賞に限らず、何事も成果や結果ばかりに目が行ってしまう私である。しかし、その功績は決して一人だけの力ではなく、それこそ多くの人々に支えられ、助けられ、成し得たことなのだろう。
自分の力をつい誇りたくなる私であるが、どの様な時にも励まされ、支えられている身であると知らされれば、出来ることをさせていただいている「ありのままの私」の姿が見えてくるのではないだろうか。