人の悪き事はよくよく見ゆるなり わが身の悪き事は覚えざるものなり~ 蓮如上人~
人の悪き事はよくよく見ゆるなり わが身の悪き事は覚えざるものなり~蓮如上人~
気の置けない友人や家族の前で、その場にいない人の欠点をあげつらったり、悪口を言って盛り上がったりする。そんな経験を誰もが一度や二度したことはないだろうか。調子にのって、言わないでいいことまで話し、決まって最後には後味の悪い思いをし、後悔するのがオチである。
後になって反省をするのだが、「悪かった」と反省してみたところで、悪いところを改善できると思い込んでいる限り、見えてくるのは善人面の私の姿ではないだろうか。
どこまでも都合よく私自身を見ようとするその性根を照らし、気づかせるはたらきに出会わない限り、自分自身の闇など思い当たりもしないのだろう。
捨てきれない荷物の重さまえうしろ ~ 種田山頭火 ~
捨てきれない荷物の重さまえうしろ~種田山頭火~
種田山頭火の生涯は、想像を絶する喪失の歩みであった。「捨てきった」はずの彼が行乞の果てに見た風景からは、捨てきれない過去の記憶と未来への思い、日々出遇い続ける人の交わりが感じとれる。
「無縁社会」などとうそぶいたところで、所詮人は一人では生きられない。その事実を「身」とよぶ。身は必ず場所に伴い、その場所を「土」とよぶ。たとえあなたがいま、さすらいの身だとしても、存在している土、すなわち今の居場所が身を育む場として受け取められているかどうかが大切である。
ひと一人では測り知れない世界から、いま与えられている土を想い、我が身について考える。そこから本当の未来は拓かれる。
跂つ者は立たず跨ぐ者は行かず~老子~
跂つ者は立たず 跨ぐ者は行かず~老子~
新年を迎えると、幼い頃の「書き初め」を思い出す。随分と大げさな目標を〝書〟にし、三日坊主で終わっては、よく両親に怒られたものだ。〝三つ子の魂百まで〟とはよく言ったもので、当時と変わらず背伸びをした目標を掲げる自分に嫌気がさす。
今月の言葉を訳するならば「つま先立ちではしっかり立つことができない、大股歩きでは長く歩けない」ということだろう。背伸びをすることも大切だ。時には大股で歩くことも必要かもしれない。しかし、そこには必ず不自然さが生じるとともに、足下がフラフラするものだ。新しい年、まずは自身の足下をしっかり見つめ、ありのままの自分で一歩一歩を確認しながら歩む一年にしたいものだ。
吉凶は人によりて日によらず~吉田兼好~
吉凶は人によりて日によらず~吉田兼好~
年の瀬が近くなると、全国の様々な「パワースポット」が注目される。初詣には有名な神社仏閣を訪れ、あらゆる「験」を担いで損なしという感覚に世代間の差は殆ど無いのかもしれない。書店には平積みで「暦」が並ぶ。現代でも六曜や方角などが「吉凶」を見極める頼りとなっている。だが鎌倉時代末期の随筆家、吉田兼好は現在の己が行いによって未来の良し悪しは左右されると指摘する。親鸞聖人は「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ」と私たちが当たり前の道理に暗いことを悲しみをもって受け止められている。12月、一年間の己が行いを振り返ってみる。さて、来年の私たちに700年前からの指摘はどう響いてくるのだろうか。
我、今帰するところ無く孤独にして同伴無し~源信僧都~
我、今帰するところ無く孤独にして同伴無し~源信僧都~
インターネットカフェの取材番組を見た。安価と街中ということもあり、多くの人が利用し、そこを住まいとしている人もいるようだ。しかし、何かしら表情には疲れが現れているように感じた。
人間は、関係性を生きる存在であると教えていただく。しかし、帰する所を無くしてしまうと、孤独になり、共感してくれる人を見失うようである。関係が希薄ないまを言いあてているようだ。
当院参拝記念印の法語の、「『同朋』という言葉は、喜びも悲しみも共にする、上も下もない真実の教えに出遇った仲間のことを言います。仏教の教えに出遇って、このような温かい人間関係の交わりを大切にしたいものです」と記している。
私たちに偉大な事はできません 偉大な愛で小さなことをするだけです~マザー・テレサ~
私たちに偉大な事はできません 偉大な愛で小さなことをするだけです~マザー・テレサ~
毎年十月はノーベル賞が発表される。今年は文学賞の発表が見送られるとのことで、少し残念な年になる。それでも、平和賞や物理学賞等で、どの様な発見、行動が世界に貢献したのか興味は尽きない。
ノーベル賞に限らず、何事も成果や結果ばかりに目が行ってしまう私である。しかし、その功績は決して一人だけの力ではなく、それこそ多くの人々に支えられ、助けられ、成し得たことなのだろう。
自分の力をつい誇りたくなる私であるが、どの様な時にも励まされ、支えられている身であると知らされれば、出来ることをさせていただいている「ありのままの私」の姿が見えてくるのではないだろうか。
これでいいのだ~赤塚不二夫~
これでいいのだ~赤塚不二夫~
バカボンのパパの余りにも有名なセリフだ。「薄伽梵(ばぎゃぼん)」という仏教用語がある。サンスクリット語のbhagavatという言葉で、釈迦あるいは仏を指す言葉だ。面白いことに、一時はバカボンの名前の由来ではないかとも言われていた。さて仏は私たち人間と違い、分別が深いことから軽々しく他人の過ちを否定されたりはしないものだ。師兄の話曰く、子どもが阿弥陀如来をみて「オッケー、オッケーしてはるなぁ」と。何のことかと思えば、両手の結印のことだった。深い意味のある結印だが、意味を知らずともその姿は子どもに充分通じていた。バカボンの名前の由来はどうあれ、「これでいいのだ」ありがたいことばではないか。果たして平素、私は言えているだろうか。
人生に失敗がないと人生を失敗する~斎藤茂太~
人生に失敗がないと人生を失敗する~斎藤茂太~
”人生を失敗する“とはどういうことだろう。それは、「出遇うべきことに出遇えない」ということではないだろうか。
私たちは失敗によって立ち止まり、己を振り返る機会に恵まれる。しかし、己の失敗とは他者との出遇いによってもたらされるものである。つまり、私たちは出遇いから失敗をいただき、それが糧となって今の私を成り立たせている。そう考えれば、出遇いは生きることそのものに深く結びついていると言えるのではないだろうか。そのことに気付けなければ、私たちの人生は真に空過なものになってしまう。一度しかない人生だからこそ、不思議なご縁によっていただいた出遇いを大切にしていきたい。
どうにもならぬままが 私のこんにちあるく 道でございました ~榎本栄一~
どうにもならぬままが私のこんにちあるく道でございました~榎本栄一~
私たちは、自分の思い通りになることが「幸せ」で、どうにもならないことが「不幸」であるという価値観の中で生きてはいないだろうか。考えてみれば、自分で作り出した善し悪しによって、自分自身が振り回され苦しんでいる。
仏さまの教えは、自分の思いではどうにもならない身を生きている事実を、事実として教えてくださっている。掲示板の言葉にあるように、「どうにもならぬまま」であると我が身をいただいていく中に、私だけに用意された人生の道に気付くことができるのだろう。寄り道ばかりの人生ではあるが、それぞれに用意された人生の道に感謝と喜びをもって歩める生き方を仏法聴聞から確認していきたい。
比較のないところには嫉妬はない~フランシス・ベーコン~
比較のないところには嫉妬はない~フランシス・ベーコン~
私たちには、止め難い厄介な癖がある。それは自らと他を比較してしまう癖だ。意識、無意識に関わらず様々な対象と自らを比べてしまう。この気持ちの奥底には、「あの人より私のほうが…」という「優越感」を得ることで安心していたいという思いが見え隠れする。だがその思いの正体は「劣等感」だ。自らの不安が抑えきれなくなると、「嫉妬」という感情となって吐き出される。
ただ、私たちは他と比べる必要がない「個性(いのち)」という手掛かりを持っていることも事実だ。お互いの個性を尊重しあう「比べない視点」を一つ授かれば、嫉妬は徐々に萎縮していくに違いない。比較のない世界は、案外私たちの傍らにあるのかもしれない。