これでいいのだ~赤塚不二夫~

これでいいのだ~赤塚不二夫~
バカボンのパパの余りにも有名なセリフだ。「薄伽梵(ばぎゃぼん)」という仏教用語がある。サンスクリット語のbhagavatという言葉で、釈迦あるいは仏を指す言葉だ。面白いことに、一時はバカボンの名前の由来ではないかとも言われていた。さて仏は私たち人間と違い、分別が深いことから軽々しく他人の過ちを否定されたりはしないものだ。師兄の話曰く、子どもが阿弥陀如来をみて「オッケー、オッケーしてはるなぁ」と。何のことかと思えば、両手の結印のことだった。深い意味のある結印だが、意味を知らずともその姿は子どもに充分通じていた。バカボンの名前の由来はどうあれ、「これでいいのだ」ありがたいことばではないか。果たして平素、私は言えているだろうか。
人生に失敗がないと人生を失敗する~斎藤茂太~

人生に失敗がないと人生を失敗する~斎藤茂太~
”人生を失敗する“とはどういうことだろう。それは、「出遇うべきことに出遇えない」ということではないだろうか。
私たちは失敗によって立ち止まり、己を振り返る機会に恵まれる。しかし、己の失敗とは他者との出遇いによってもたらされるものである。つまり、私たちは出遇いから失敗をいただき、それが糧となって今の私を成り立たせている。そう考えれば、出遇いは生きることそのものに深く結びついていると言えるのではないだろうか。そのことに気付けなければ、私たちの人生は真に空過なものになってしまう。一度しかない人生だからこそ、不思議なご縁によっていただいた出遇いを大切にしていきたい。
どうにもならぬままが 私のこんにちあるく 道でございました ~榎本栄一~

どうにもならぬままが私のこんにちあるく道でございました~榎本栄一~
私たちは、自分の思い通りになることが「幸せ」で、どうにもならないことが「不幸」であるという価値観の中で生きてはいないだろうか。考えてみれば、自分で作り出した善し悪しによって、自分自身が振り回され苦しんでいる。
仏さまの教えは、自分の思いではどうにもならない身を生きている事実を、事実として教えてくださっている。掲示板の言葉にあるように、「どうにもならぬまま」であると我が身をいただいていく中に、私だけに用意された人生の道に気付くことができるのだろう。寄り道ばかりの人生ではあるが、それぞれに用意された人生の道に感謝と喜びをもって歩める生き方を仏法聴聞から確認していきたい。
比較のないところには嫉妬はない~フランシス・ベーコン~

比較のないところには嫉妬はない~フランシス・ベーコン~
私たちには、止め難い厄介な癖がある。それは自らと他を比較してしまう癖だ。意識、無意識に関わらず様々な対象と自らを比べてしまう。この気持ちの奥底には、「あの人より私のほうが…」という「優越感」を得ることで安心していたいという思いが見え隠れする。だがその思いの正体は「劣等感」だ。自らの不安が抑えきれなくなると、「嫉妬」という感情となって吐き出される。
ただ、私たちは他と比べる必要がない「個性(いのち)」という手掛かりを持っていることも事実だ。お互いの個性を尊重しあう「比べない視点」を一つ授かれば、嫉妬は徐々に萎縮していくに違いない。比較のない世界は、案外私たちの傍らにあるのかもしれない。
咲くも 花の生命なら 散るのも 花の生命 ~正親 含英~

咲くも花の生命なら散るのも花の生命~正親 含英~
つつじが、難波別院「獅子吼園」の小さな池の辺で、陽ざしに向かって赤紫色の花を咲かせている。初夏の陽に照らされても、強風に揺さぶられても、活き活きとしているように感じさせる。
昔から、「死んだら人間しまいや、後はなんにもない」と耳にするが、そうだろうか。生きた花ならば、咲けば必ず散る。正親先生は、「人間も、この世に生まれて来て、本当に生きる道は、本当に死ぬるということにおいてもいのちを見出してゆく道ではありませんか」と言われている。
人間、死ぬ日は必ず来る。その時、自分の一生の前に手が合わさって、有難うございますといういのちが、今自分に開かれているだろうか。
生きているという事は決して私の力ではないのだ~高松信英~

生きているという事は決して私の力ではないのだ~高松 信英~
御堂筋を、どこか初々しさを感じさせるスーツ姿の若者が、笑顔で、または緊張した面持ちで行き交っている。社会人1年目をスタートさせた多くの人が、早く仕事を覚え、認められたいと思っているだろうし、また、周囲からも早く一人前になって欲しいと期待されていることだろう。
以前「何でも出来て周囲から頼られるだけでは半人前だ。仲間を頼ることも出来てこそ一人前である。自分の能力に過信せず、互いに支え合っていることを忘れてはいけない」と先輩から教えられた。
この私の生そのものが、あらゆるものとの関わりの中で紡ぎ出されている。決して一人だけの世界を生きているのではない。そのことを忘れずにいたい。
ただ念仏のみぞまことにておわします~『歎異抄』~

ただ念仏のみぞまことにておわします~『歎異抄』~
世の中で大きな事件が起こると、決まって人々は「真実を知りたい」という。
仏教的に考えてみよう。たとえば雨が降る。これは気象現象であって「事実」にすぎない。しかし私たちはそれを「雨が降って都合が悪い・都合が良い」と見る。これを「現実」という。つまり必ず都合(煩悩)を入れて事実を見ているのが人間である。よって煩悩で眼が曇っている人間は決して「真実」を見ることができない。これが仏教の人間観である。
親鸞聖人はこの世の中に真実はないと感得された。毎日煩悩で右往左往する私たち。真実を知ることではなく、真実そのもの、阿弥陀如来に手を合わせ、その名を称える(念仏)ことこそが大切なのだ。
”人々”は 残酷だが ”人”は優しい~ ラビンドラナート・タゴール~

「人々」は残酷だが「人」は優しい~ラビンドラナート・タゴール~
人々とは、同じ価値観を共有する集団である。人は、この集団の中では匿名的な存在となり、自己意識や自分なりの道徳観念などが薄れる傾向にある。恐ろしいもので、人は集団に身を委ねきると状況によってはどんな残酷なことでもしてしまう。イジメはその最たるものだ。集団の中で生まれた身勝手な価値観に囚われ、他人を傷つけていることに気付けない。しかし、人は優しさを持っている。周りからいただいた優しさが心の奥底で芽となって根付き、息づいているのだ。だが、その優しさが集団の中では途端に閉ざされてしまう。その芽を摘んでしまう私の生き方に目を向けてみよう。〝人〟は優しい。私たちは、そのことに気付けているだろうか。
真の贅沢というものは ただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ ~サン=テグジュペリ~

真の贅沢というものはただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ~サン=テグジュペリ~
人間とは、字のごとく「人と人との間柄を生きる、他との関係性において成り立つ存在」であることは言うまでもない。そういう関係性を生きながらも、自分の好き嫌いで人間関係を築き、自分の都合に合わなくなれば苦しむ。自分の理想や願望による生き方は、その関係性を断ち切る“孤立”でしかない。
「贅沢」という言葉は、必要以上にお金や物を使う意味として捉えてしまいがちだが、掲示板の言葉でいう贅沢は、私にとって身に余る喜びを意味しているように思う。
私の思いをこえて、すでに私は人間関係によって生かされている。新年を迎えて様々な人と挨拶を交わす時、そういう喜びを感じていきたい。
今年こそと思う心に今はなし~本夛 惠~

2017年12月の掲示板の言葉
来月は1月、新しい年が始まる。毎年新年を迎えると心機一転、新たな目標(希望)を立てる方も多いだろう。
だが、ややもすれば去年までの失敗や教訓を活かすどころか「無かったこと」にしてしまってはいないだろうか。年の初めに「今年こそは」と意気込む前に、謙虚に一年を振り返ってみることも大切ではないだろうか。振り返るタイミングは「今」にしかない。その「今」を先送りにすると「今年こそは」の繰り返しになってしまう。
大晦日の夜、「今の私」の存在を認め受け止めてくれる家族や知友とともに、この一年で出遇った人やその言葉を振り返ってみてはどうだろうか。