真の贅沢というものは ただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ ~サン=テグジュペリ~
真の贅沢というものはただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ~サン=テグジュペリ~
人間とは、字のごとく「人と人との間柄を生きる、他との関係性において成り立つ存在」であることは言うまでもない。そういう関係性を生きながらも、自分の好き嫌いで人間関係を築き、自分の都合に合わなくなれば苦しむ。自分の理想や願望による生き方は、その関係性を断ち切る“孤立”でしかない。
「贅沢」という言葉は、必要以上にお金や物を使う意味として捉えてしまいがちだが、掲示板の言葉でいう贅沢は、私にとって身に余る喜びを意味しているように思う。
私の思いをこえて、すでに私は人間関係によって生かされている。新年を迎えて様々な人と挨拶を交わす時、そういう喜びを感じていきたい。
今年こそと思う心に今はなし~本夛 惠~
2017年12月の掲示板の言葉
来月は1月、新しい年が始まる。毎年新年を迎えると心機一転、新たな目標(希望)を立てる方も多いだろう。
だが、ややもすれば去年までの失敗や教訓を活かすどころか「無かったこと」にしてしまってはいないだろうか。年の初めに「今年こそは」と意気込む前に、謙虚に一年を振り返ってみることも大切ではないだろうか。振り返るタイミングは「今」にしかない。その「今」を先送りにすると「今年こそは」の繰り返しになってしまう。
大晦日の夜、「今の私」の存在を認め受け止めてくれる家族や知友とともに、この一年で出遇った人やその言葉を振り返ってみてはどうだろうか。
人間を 本当に 自覚させるのが 仏教です ~蓬茨 祖運~
2017年11月の掲示板の言葉
通信会社のCMに三太郎と鬼が登場する。昔のイメージとは異なり、仲良く付き合っている姿が微笑ましい。昔話では、鬼(嫌いなもの)を自分の敵として追い払い、仲間(好きなもの)を寄せようとしている。
自分を振り返ると、日々の暮らしの中で好きなものは、他人から自分に寄せようとしてはいないだろうか。また、嫌いなことは自分に来させないために、他人に押しつけようとしてはいないだろうか。思い通りにならないと、相手を鬼と見ることになる。
仏の教は、そういう自身の姿を照らしだしてくる。他人も私も、お互いに相手を鬼と見ていることに気づかしめるのである。眼差しを外ではなく、内に向けさせるのが教えである。
一度きりの尊い道を 今、歩いている ~榎本栄一~
2017年10月掲示板の言葉
「人生は一度きりだぞ」という言葉をよく聞く。いつか死がやってくるから後悔しないように生きよということだ。そこには死を厭い、遠くへ追いやり、自己中心的な思いで生きている私の姿がある。
仏教は死から離れようとする私たちに静かに死を見据えることができる道を与えてくれる。死と共に生きているのだと教えられれば、こうして生きていることは不思議であり、私の思いを超えた事実であると気付かされる。その事実を受け止めてみれば、どれほど得がたい今を生きているかが見えてくる。
今、ここにこうして生きているのは当たり前のことではない。思いや計らいを超えた尊い事実の中で生かさせていただいているのだ。
夜明けの前は 闇に決まっている 闇に先立つ 夜明けはないことである~高光 大船~
2017年9月掲示板の言葉
混迷する現代、高光氏のこの言葉は心に響く。冷淡にも聞こえるが、奥底からくる真実味がある。
「夜明け」とは何か。それは他の誰でもない「私自身の目覚め」を指す。私が私の人生のありさまに目覚めることである。なぜなら言葉を重ねつつ「外に求め、人のせいに」するのは世の賛成派にせよ、反対派にせよ、ともに常套手段である。不安が根底にある似たもの同士が「世界の平和・人類の平等」を旗印にし、互いを罵りあい、傷つけあっても、生み出すものは憎しみと闇の連鎖に過ぎない。
この世は闇だ。ただ、その闇を作っているのは実はこの私自身なのだ。そう実感したときが、おそらく夜明けに最も近い所にいる。
つらくてもおもくても 自分の荷は 自分で背負って 生きさせてもらう ~東井 義雄~
2017年8月掲示板の言葉
私たちの人生において最も重い荷は、決して思い通りにならない「生老病死」という問題ではないだろうか。どれほど病に冒されようとも、どれほど逃げ出したいことがあろうとも、私の荷を他者に背負ってもらうことなど出来ようはずはない。私の荷は、どこまでも私によって作り出される。その自我や我執によって作られた荷を背負うことがつらい、おもいと決めつけている私にこそ、生きていく苦しみの根源があるのではないか。
つらく、おもく、背負いきれないことがあろうとも、私を救う「はたらき」がある。それが南無阿弥陀仏であり、その限りない「はたらき」によって今私の〝いのち〟が生かされている。
昼のお星はめにみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ~金子みすず~
2017年7月掲示板の言葉
現代は科学が発展し、様々なことが立証されてきた。もはや現代人は、目に見えるものでしか、信じられなくなったのかも知れない。
しかし私たちは、目に見えないものによって支えられ、存在していることは言うまでもない。自分の思い(自我)に縛られて、そのことになかなか目がむかないでいる。
星は、太陽の光や雲によって遮られることがあるが、そこに確実に存在し光輝き続けている。目に見えないが確かにあるものに、思いを巡らせることが大切なことではないだろうか。そこに、私を成り立たせる根本的な“いのち”との出遇いがあるはずだ。
今日一日の実行こそが 人生のすべてです ~平沢 興~
2017年6月の言葉
私は今日、どの様な一日を過ごしたのだろう。今日を振り返り「いい一日だった」と本当に心から歓べるのだろうか。身勝手な未来予想に耽ることと、予想通りにならない事への愚痴に埋め尽くされ、私の今日という「今」は瞬く間に「過去」となる。この過去からは「虚しい今」しか生まれてはこない。自らが積み上げてきた過去を見直すことなしに、今日を満足に終えていくことはできないのであろう。
今私が行うことが必ず「私たちの未来」に作用すると思えるならば、自然とその行いはより丁寧にそして大切なものとなってくるはずだ。今日の生き方が私たちの人生すべてを決定づける。今という責任を生きる厳しさがこの言葉から問われてくる。
聴けば聴くほど おまかせ以外 仕方のない私がわかってくる〜 鈴木章子 〜
2017年5月の言葉
浄土真宗では、聴聞という言葉を大切にしている。言葉の成り立ちを辞典に引くと、「聴」くとは一生懸命にききいることのようで、「聞」くとは無意識にきこえてくることのようである。
さて自分は、どういうききかたをしているのだろうか。家や外では、自分に都合の悪いことは、きかないふりをしている。しかし、自分への悪口などは、耳をそばだててきいている。その時その時、自分の都合にあわせてきいている。
仏の教えにきくとは、身の事実をきくのである。仏法をきいて、賢くなるのでない。どうしてみようもない自分に気づかせていただくのである。おまかせしていくしかない自分に出会うのである。
人間とは 他と自分を比較しないと 幸福も不幸もわからない まことに厄介な生き物です〜 平野恵子 〜
2017年4月の言葉
私たちは、自分の正しさによって作った「ものさし」によって、損か得か、勝った負けたと、あらゆるものをはかっている。「あの人よりは幸せ」「あの人よりは駄目だ」と、知らず知らずのうちに他と比べてみては、自分の優劣を自分でつけてしまう。そのような比較から、優越感にひたっては幸福と感じたり、劣等感から不幸と感じているのではないだろうか。まさに人間の迷いの在り方がそこにあるのだろう。
仏の教えは、そんな私たちの姿を照らし出し、比べる必要のない、ありのままの私として生きていく道を示してくださっている。「幸福とは何か」ということを、仏の教えに訪ねてみたい。(う)