咲くも 花の生命なら 散るのも 花の生命 ~正親 含英~
咲くも花の生命なら散るのも花の生命~正親 含英~
つつじが、難波別院「獅子吼園」の小さな池の辺で、陽ざしに向かって赤紫色の花を咲かせている。初夏の陽に照らされても、強風に揺さぶられても、活き活きとしているように感じさせる。
昔から、「死んだら人間しまいや、後はなんにもない」と耳にするが、そうだろうか。生きた花ならば、咲けば必ず散る。正親先生は、「人間も、この世に生まれて来て、本当に生きる道は、本当に死ぬるということにおいてもいのちを見出してゆく道ではありませんか」と言われている。
人間、死ぬ日は必ず来る。その時、自分の一生の前に手が合わさって、有難うございますといういのちが、今自分に開かれているだろうか。
生きているという事は決して私の力ではないのだ~高松信英~
生きているという事は決して私の力ではないのだ~高松 信英~
御堂筋を、どこか初々しさを感じさせるスーツ姿の若者が、笑顔で、または緊張した面持ちで行き交っている。社会人1年目をスタートさせた多くの人が、早く仕事を覚え、認められたいと思っているだろうし、また、周囲からも早く一人前になって欲しいと期待されていることだろう。
以前「何でも出来て周囲から頼られるだけでは半人前だ。仲間を頼ることも出来てこそ一人前である。自分の能力に過信せず、互いに支え合っていることを忘れてはいけない」と先輩から教えられた。
この私の生そのものが、あらゆるものとの関わりの中で紡ぎ出されている。決して一人だけの世界を生きているのではない。そのことを忘れずにいたい。
ただ念仏のみぞまことにておわします~『歎異抄』~
ただ念仏のみぞまことにておわします~『歎異抄』~
世の中で大きな事件が起こると、決まって人々は「真実を知りたい」という。
仏教的に考えてみよう。たとえば雨が降る。これは気象現象であって「事実」にすぎない。しかし私たちはそれを「雨が降って都合が悪い・都合が良い」と見る。これを「現実」という。つまり必ず都合(煩悩)を入れて事実を見ているのが人間である。よって煩悩で眼が曇っている人間は決して「真実」を見ることができない。これが仏教の人間観である。
親鸞聖人はこの世の中に真実はないと感得された。毎日煩悩で右往左往する私たち。真実を知ることではなく、真実そのもの、阿弥陀如来に手を合わせ、その名を称える(念仏)ことこそが大切なのだ。
”人々”は 残酷だが ”人”は優しい~ ラビンドラナート・タゴール~
「人々」は残酷だが「人」は優しい~ラビンドラナート・タゴール~
人々とは、同じ価値観を共有する集団である。人は、この集団の中では匿名的な存在となり、自己意識や自分なりの道徳観念などが薄れる傾向にある。恐ろしいもので、人は集団に身を委ねきると状況によってはどんな残酷なことでもしてしまう。イジメはその最たるものだ。集団の中で生まれた身勝手な価値観に囚われ、他人を傷つけていることに気付けない。しかし、人は優しさを持っている。周りからいただいた優しさが心の奥底で芽となって根付き、息づいているのだ。だが、その優しさが集団の中では途端に閉ざされてしまう。その芽を摘んでしまう私の生き方に目を向けてみよう。〝人〟は優しい。私たちは、そのことに気付けているだろうか。
真の贅沢というものは ただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ ~サン=テグジュペリ~
真の贅沢というものはただ一つしかない それは人間関係という贅沢だ~サン=テグジュペリ~
人間とは、字のごとく「人と人との間柄を生きる、他との関係性において成り立つ存在」であることは言うまでもない。そういう関係性を生きながらも、自分の好き嫌いで人間関係を築き、自分の都合に合わなくなれば苦しむ。自分の理想や願望による生き方は、その関係性を断ち切る“孤立”でしかない。
「贅沢」という言葉は、必要以上にお金や物を使う意味として捉えてしまいがちだが、掲示板の言葉でいう贅沢は、私にとって身に余る喜びを意味しているように思う。
私の思いをこえて、すでに私は人間関係によって生かされている。新年を迎えて様々な人と挨拶を交わす時、そういう喜びを感じていきたい。
今年こそと思う心に今はなし~本夛 惠~
2017年12月の掲示板の言葉
来月は1月、新しい年が始まる。毎年新年を迎えると心機一転、新たな目標(希望)を立てる方も多いだろう。
だが、ややもすれば去年までの失敗や教訓を活かすどころか「無かったこと」にしてしまってはいないだろうか。年の初めに「今年こそは」と意気込む前に、謙虚に一年を振り返ってみることも大切ではないだろうか。振り返るタイミングは「今」にしかない。その「今」を先送りにすると「今年こそは」の繰り返しになってしまう。
大晦日の夜、「今の私」の存在を認め受け止めてくれる家族や知友とともに、この一年で出遇った人やその言葉を振り返ってみてはどうだろうか。
人間を 本当に 自覚させるのが 仏教です ~蓬茨 祖運~
2017年11月の掲示板の言葉
通信会社のCMに三太郎と鬼が登場する。昔のイメージとは異なり、仲良く付き合っている姿が微笑ましい。昔話では、鬼(嫌いなもの)を自分の敵として追い払い、仲間(好きなもの)を寄せようとしている。
自分を振り返ると、日々の暮らしの中で好きなものは、他人から自分に寄せようとしてはいないだろうか。また、嫌いなことは自分に来させないために、他人に押しつけようとしてはいないだろうか。思い通りにならないと、相手を鬼と見ることになる。
仏の教は、そういう自身の姿を照らしだしてくる。他人も私も、お互いに相手を鬼と見ていることに気づかしめるのである。眼差しを外ではなく、内に向けさせるのが教えである。
一度きりの尊い道を 今、歩いている ~榎本栄一~
2017年10月掲示板の言葉
「人生は一度きりだぞ」という言葉をよく聞く。いつか死がやってくるから後悔しないように生きよということだ。そこには死を厭い、遠くへ追いやり、自己中心的な思いで生きている私の姿がある。
仏教は死から離れようとする私たちに静かに死を見据えることができる道を与えてくれる。死と共に生きているのだと教えられれば、こうして生きていることは不思議であり、私の思いを超えた事実であると気付かされる。その事実を受け止めてみれば、どれほど得がたい今を生きているかが見えてくる。
今、ここにこうして生きているのは当たり前のことではない。思いや計らいを超えた尊い事実の中で生かさせていただいているのだ。
夜明けの前は 闇に決まっている 闇に先立つ 夜明けはないことである~高光 大船~
2017年9月掲示板の言葉
混迷する現代、高光氏のこの言葉は心に響く。冷淡にも聞こえるが、奥底からくる真実味がある。
「夜明け」とは何か。それは他の誰でもない「私自身の目覚め」を指す。私が私の人生のありさまに目覚めることである。なぜなら言葉を重ねつつ「外に求め、人のせいに」するのは世の賛成派にせよ、反対派にせよ、ともに常套手段である。不安が根底にある似たもの同士が「世界の平和・人類の平等」を旗印にし、互いを罵りあい、傷つけあっても、生み出すものは憎しみと闇の連鎖に過ぎない。
この世は闇だ。ただ、その闇を作っているのは実はこの私自身なのだ。そう実感したときが、おそらく夜明けに最も近い所にいる。
つらくてもおもくても 自分の荷は 自分で背負って 生きさせてもらう ~東井 義雄~
2017年8月掲示板の言葉
私たちの人生において最も重い荷は、決して思い通りにならない「生老病死」という問題ではないだろうか。どれほど病に冒されようとも、どれほど逃げ出したいことがあろうとも、私の荷を他者に背負ってもらうことなど出来ようはずはない。私の荷は、どこまでも私によって作り出される。その自我や我執によって作られた荷を背負うことがつらい、おもいと決めつけている私にこそ、生きていく苦しみの根源があるのではないか。
つらく、おもく、背負いきれないことがあろうとも、私を救う「はたらき」がある。それが南無阿弥陀仏であり、その限りない「はたらき」によって今私の〝いのち〟が生かされている。